第176話 世界一周と、紅茶の香り
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴174年 8月10日 快晴 ハーグ』
マルコさんが出航してから、もう二年近くが経つ。時折、中継地から届く手紙で、彼の冒険譚に胸を躍らせてはいたけれど、さすがに、少し心配になってきた頃だった。
その日、西の港町から、信じられない報せが鉄道を使ってハーグの僕の元へと届けられた。
『――マルコ・フォン・ブラント氏率いる探検艦隊、東回り航路にて、交易都市フィオラヴァンテに、無事、帰還!』
「ひがしまわり……? ってことは……」
「世界一周、ですわね。あの方、また、とんでもないことを、しれっと、やってのけましたわ。これで世界が丸い事が証明されてしまったわね……」
報告書を読み上げたビアンカが、呆れたように、しかし、どこか誇らしげに、微笑んだ。
数日後。ハーグの駅には、英雄の凱旋を一目見ようと、たくさんの人々が集まっていた。
特別列車から降り立ったマルコさんは、日に焼けて、少し痩せていたけれど、その瞳は、探検家としての、自信と達成感に満ち溢れていた。
「ただいま、戻りました! ライル様!」
「おかえり、マルコさん! 無事で、本当によかった!」
僕たちは、固い、固い握手を交わした。
そしてマルコさんは、約束通り、僕に最高のお土産を献上してくれた。
山のような、茶葉の袋。そして、その茶葉を使った、淹れたての『紅茶』だった。
「元は緑色をしていたんですけどね。醗酵してこんな色になってしまいました」
マルコさんは苦笑していた。だが飲んでみたところ、なかなか美味しいと言う。
僕もさっそく琥珀色に輝く、温かい液体。一口、口に含む。
花のようであり、果実のようでもある、芳醇な香り。そして、口の中に広がる、ほのかな渋みと、優しい甘み。
「……おいしい……!」
僕は、その、あまりに上品で、心が安らぐような味わいに、すっかり、魅了されてしまった。
アシュレイやヴァレリアたちも、初めて口にするその味に、目を丸くしている。
「へえ、これが『紅茶』! なんだか、お洒落な味っスね!」
「珈琲とは、また違う、落ち着いた味わいですな。これは、素晴らしい」
その日から、ヴィンターグリュン王国に、そして、あっという間にアヴァロン帝国全土に、空前の『紅茶ブーム』が巻き起こった。
貴族のサロンでは、午後のひとときに、美しい磁器のカップで紅茶を嗜むのが、最高のステータスとなった。僕も毎日のように、執務の合間にミルクや砂糖を入れて、その味を楽しんでいた。
僕も、民も、そして帝国も、新しい文化の到来に、ただ、浮かれていた。
この、一杯の紅茶の裏に、一つの国が、麻薬の毒に沈んでいるという、あまりに重い真実が、隠されていることなど、まだ、誰も、知らずに。
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