第164話 もうダメだっ! 帝都フェルグラントに通うのは限界だっ! そうだ! ハーグに遷都すればいいんじゃないのかな? リアンくんいいよねっ?
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴170年 8月1日 昼』
(もう僕も三十二歳か……。すっかり、おっさんだよ、トホホ。初めてユリアン皇帝と会ったときは二十歳だったのになあ……)
帝都フェルグラントにある、摂政として僕にあてがわれた執務室。その窓から見える景色は、確かに壮麗で、歴史の重みを感じさせるものだった。だけど、僕の目の前にあるのは、うんざりするような紙の山。貴族同士の、実にくだらない縄張り争いの仲裁だとか、何かの建物の修繕費の予算案だとか……。
(ああ、ハーグに帰りたい……。畑で、土いじりがしたい……)
そんな僕の、ささやかな現実逃避を破ったのは、部屋の主である、若き皇帝の声だった。
「ライルさん、これ、終わりましたよ」
「おお、ごめんごめん! ありがとう、アウレ……うーん、アウレリアン陛下」
僕は、十九歳になったばかりの、まだどこか少年っぽさの残る皇帝の顔を見て、つい、いつもの癖で言い間違えそうになってしまった。それにしても、アウレリアン、という名前は、なんだか長くて呼びにくい。
「あのさあ、陛下。その、アウレリアンっていうお名前、僕、いまだにうまく言えなくて。……リアン君、って呼んでもいいかな?」
僕の、あまりに不敬な提案に、周りに控えていた侍従たちの顔が、さっと青ざめるのがわかった。だが、当のリアン君は、きょとんとした後、実に楽しそうに、にこりと笑ったのだ。
「リアン君? うん、いいですよ! なんだか、そっちの方が、友達みたいで素敵だ!」
その日を境に、僕は彼のことを、公の場でも「リアン君」と呼ぶようになった。そして、当の本人も、すっかりその呼び名が気に入ってしまったらしく、公式な書類への署名にまで、平気で『リアン』とサインしてしまうものだから、さあ大変。
最初は困惑していた貴族たちも、「皇帝陛下ご自身が、そう名乗っておられるのだから」と、いつの間にか、彼のことを『リアン一世陛下』とか『リアン・フォン・アヴァロン』とか、そんな風に呼ぶのが当たり前になってしまった。
伝統ある帝国の歴史が、僕の、ほんの些細な思いつきで、また一つ、あっさりと変わってしまった瞬間だった。
そんなことより、僕には、もっと切実な問題があった。
(もう、ダメだ……。ハーグから、帝都に通うの、限界……!)
月の半分を帝都で過ごし、残りの半分をハーグで過ごす。この、長距離通勤とも言える生活が、僕の体と心を、じわじわと蝕んでいた。鉄道ができたとはいえ、移動は移動だ。僕は、家族と離れて暮らすのも、畑の世話ができないのも、もう、我慢ならなかった。
(そうだ!)
ある日、ハーグの城で、子供たちと泥んこになって遊んだ後、僕の頭に、いつもの、とんでもない考えが閃いた。
(帝都が、こっちに来ればいいんじゃないかな?)
僕は、その足で、帝都のリアン君の元へと向かった。そして、最高の笑顔で、彼にこう囁きかけたのだ。
「ねえ、リアン君。帝都ってさ、なんだか古くさくて、空気も悪いと思わない? それに比べて、僕たちのハーグは、ご飯も美味しいし、空気も綺麗だし、毎日がお祭りみたいで、すごく楽しいよ! どうかな? いっそのこと、帝国の首都を、ハーグに移しちゃうっていうのは!」
僕の、あまりに突拍子もない提案。だが、リアン君は、窮屈な帝都の暮らしに、少しだけ飽き飽きしていたのだろう。その目を、子供のようにキラキラと輝かせた。
「面白そうだね、それ! うん、やろうよ! 新しい時代の幕開けには、新しい都が相応しい! すぐに、遷都の計画を進めて!」
こうして、帝国の首都を、北の都市ハーグへと移すという、前代未聞の国家プロジェクトが、僕と、若い皇帝の、軽いノリで決定してしまった。
その噂が、城中を駆け巡っていた、数日後のこと。
白亜の館で開かれたお茶会で、新大陸の女帝シトラリちゃんが、おもむろに、そして、実に満足げな顔で、こう言ったのだ。
「ふむ。遷都か。……ちょうど良かったのじゃ」
「え?」
「この妾も、そなたの子を、この腹に宿した。これで、ライル、そなたは八人目の父となるわけじゃな」
しーん、と、お茶会の席が静まり返る。
僕は、手にしていたケーキを、危うく落としそうになった。
「えええええええええっ!?」
「産後の体力が回復したら、妾は、一度、アズトラン帝国へ帰るつもりじゃ。じゃが、赤子を、長い船旅に付き合わせるわけにはいくまい。……よって、この子は、そなたに託す。父親として、責任を持って、立派に育て上げるがよい」
彼女は、有無を言わせぬ口調で、そう、きっぱりと言い放った。
新しい都の建設計画。そして、八人目となる、新しい家族の誕生。
僕の周りで、またしても、世界の歯車が、ギシリ、と大きな音を立てて、動き始めたのだった。
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