第146話 聖都の苦悩
【ピウス七世猊下視点】
『アヴァロン帝国歴169年 12月5日 夜 冷たい風』
聖都アウグスタの、教皇執務室。窓の外では、冬の訪れを告げる冷たい風が、大聖堂の尖塔を唸るように吹き抜けていく。わたくしの心もまた、この風のように、静まることがない。
机の上には、帝国各地から届けられた報告書が、山と積まれておった。そのどれもが、帝国の分裂が、もはや避けられぬ段階にあることを、冷徹に告げておる。
(……バルバロッサめ)
わたくしは、一枚の極秘報告書を、手に取った。それは、わたくしが信頼する数少ない部下からの、血の滲むような文字で書かれた、教会内部の腐敗を告発するものであった。
大司教バルバロッサが、密かに私兵団『聖浄騎士団』を組織し、東方諸侯を扇動していること。そして、先の皇帝陛下の暗殺もまた、彼らの仕業である可能性が極めて高いこと。
(奴は、もはや女神の僕ではない。己の野心のために、神の名を騙る、悪魔じゃ)
だが、わたくしは、動けぬ。
バルバロッサは、実に巧みであった。『帝国の浄化』と称し、古くからの教義を盾に、枢機卿たちの大半を、すでにてなずけておる。彼らは、バルバロッサの言葉こそが、女神の御心であると、信じて疑わぬ。
(ここでわたくしが奴を断罪すれば、教会そのものが二つに割れる。いや、それどころか、敬虔なる信徒たちは、わたくしではなく、奴の『正義』を支持しかねん……)
なんという、皮肉。教会の分裂を恐れるあまり、わたくしは、教会を蝕む最大の癌を、放置するしかないのである。
行き詰ったわたくしの脳裏に、ふと、あの男の顔が浮かんだ。
(あのライルとかいう侯爵……。珈琲、砂糖、バーボン……。次から次へと、帝国の風紀を乱すものばかりをもたらす、得体の知れぬ男。そう、思っておった)
じゃが、本当にそうであろうか。
東方諸侯が掲げる『伝統』も、バルバロッサが叫ぶ『正義』も、あまりに血生臭い。それに比べ、あの男の戦う理由は、ただ「友との約束を守るため」だという。あまりに単純で、子供じみておる。じゃが、そのどちらが、女神の御心に近いのか……。
わたくしは、決意した。この目で、真実を確かめねばならぬ、と。
わたくしは、側近の一人、修道士マッテオを、自室へと呼びつけた。
「マッテオ。お主、北のヴィンターグリュンへ行け」
「……はっ」
「じゃが、城へは行くな。街へ、村へ、そして畑へ行け。あのライルとかいう男が、一体何者なのか。貴族としてではない。民が、彼をどう見ておるのか。その目で、その耳で、ありのままを、わたくしに報告せよ」
「御心のままに」
マッテオは、静かに一礼すると、音もなく部屋を去っていった。
一人残された執務室で、わたくしは、再び、窓の外に広がる、闇に包まれた聖都を見下ろした。
(女神よ……。わたくしは、どちらに賭ければよいのですか。帝国の未来は、一体、どこにあるのです……)
わたくしの、苦悩に満ちた問いに、答える者は、誰もいなかった。
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「あまりかな?」★二つか一つを押してね!




