第134話 平穏の終わり【帝位継承戦争編 開幕】【序盤 神の鉄槌】
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴169年 11月5日 昼下がり 快晴』
数週間前に皇帝陛下とピウス猊下を見送ったのが、まるで昨日のことのようだ。あのお二人が帰られてから、ヴィンターグリュン王国には、絵に描いたような平和な日々が続いていた。
僕は、王としての仕事もそこそこに、父親業に勤しんでいた。白亜の館の庭は、いつも子供たちの元気な笑い声で満ちている。
「父上! もっと高く!」
「レオ、危ないですよ! そんなに走っては……」
少し大きくなった長男のレオが、僕の肩車で大はしゃぎしている。次男のフェリクスは、母親であるヴァレリアの心配をよそに、兄を追いかけて、覚束ない足取りで芝生の上を駆け回っていた。木陰の長椅子では、アシュレイとノクシアが、娘のアウロラをあやしながら、その光景を微笑ましそうに眺めている。
フリズカさんやヒルデさん、ファーティマさんのお腹も日に日に大きくなって、この城は、新しい命の誕生を待つ、幸せな期待に満ち溢れていた。
(平和だなあ……。この、当たり前の毎日が、本当に宝物みたいだ)
僕は、空の青さと、子供たちの笑い声と、愛する家族の温もりに包まれながら、この幸せが、ずっと、ずっと続くと、信じて疑わなかった。
【ユリアン皇帝視点】
『同日、帝都近郊の森 午後 快晴』
帝国の秋を祝う、恒例の狩り。甲高い角笛の音が、澄んだ空気を震わせる。
(ククク、どいつもこいつも、朕の前では形無しよな)
朕は、愛馬の首筋を優しく撫でながら、後方で必死に追随してくる貴族どもを一瞥した。奴らの目には、恐怖と、媚びへつらいの色しか浮かんでおらん。実に、退屈だ。
あの北の田舎王、ライルとの日々が、いかに愉快であったか。思い出して、つい口元が緩む。
(今宵は、あの男に教わったバーボンでも飲むか。あれは、実に魂を焦がす良い酒よ)
朕が、そんなことを考えていた、まさにその瞬間だった。
ガサリ、と、すぐそばの茂みが、不自然に大きく揺れた。
次の瞬間、目の前に、信じがたい巨躯の猪が、血走った目で姿を現した。その牙は、まるで短剣のように鋭く、殺意に満ちている。
だが、朕の思考は、恐怖よりも、驚きが上回っていた。
(ほう、これほどの主が、この森に潜んでいたとは。面白い。今日の獲物は、これに決めた!)
朕が、弓に手をかけようとした、その時。
チクリ、と。愛馬の首筋に、まるで虫にでも刺されたかのような、ごく小さな痛みが走ったのを、朕は見逃さなかった。
次の瞬間、これまでどんな戦場でも朕を乗せてきた誇り高き愛馬が、聞いたこともないような、苦痛に満ちた絶叫を上げたのだ。
「なっ……!?」
馬は、ただ暴れているのではない。見えざる苦痛から逃れようと、狂ったように首を振り、その場を跳ね回る。その瞳は恐怖に白く濁り、口からは泡が噴き出していた。
「静まれ! どうしたというのだ!」
歴戦の乗り手である、この朕の手綱捌きをもってしても、薬物か何かで狂わされた獣の力は、あまりに強大すぎた。
馬の巨体が、天に向かって、垂直に立ち上がる。視界が、ぐるりと回転した。
(……まずい)
次の瞬間、朕の体は、まるで投げ出された小石のように、宙を舞った。背中に、樫の木の、硬く、冷たい感触。そして、全てを砕くような、凄まじい衝撃。
ごふっ、と、口から熱いものがこみ上げる。視界が、急速に、赤黒く染まっていく。
遠くで、誰かが朕の名を叫んでおる。うるさい。静かにさせろ。
薄れゆく意識の中、最後に思い浮かんだのは、あの、気の抜けた田舎王の顔だった。
(ライルよ……。次の一杯は、飲めそうに、ないか……)
そして、朕の世界は、永遠の闇に包まれた。
【聖浄騎士団員視点】
『同日、同刻、同場所』
その、地獄のような混乱を、狩りの獲物を追い立てる役目を負っていた、一人の若い従者が、森の奥から、冷たい瞳で見つめていた。彼の顔に、表情はない。ただ、その唇が、わずかに動いた。
(天罰は、下された)
その胸に抱かれた、女神教の聖印が、鈍い光を放つ。
(愚かなる皇帝。巨大な猪に気を取られている間に、神の毒針がその愛馬を狂わせたことにも気づかず、無様に果てたか。皇帝の堕落は、帝国の腐敗そのもの。この血は、女神が流させたもうた、聖なる浄化の血)
従者は、静かに踵を返すと、誰にも気づかれることなく、森の闇の中へと、溶けるように消えていった。
(聖浄騎士団の、最初の御業は、ここに成りぬ)
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