第123話 初代総裁の憂鬱と、帝国の夜明け
【アルブレヒト・フォン・リヒター視点】
『アヴァロン帝国歴167年 6月5日 帝都執務室』
(……我が人生で、これほど理不尽な辞令を、他に知らない)
私、アルブレヒト・フォン・リヒターは、帝国内務省で三十年、ただひたすらに、法と秩序、そして数字と向き合ってきた。私の仕事は、常に明瞭で、常に論理的でなければならなかった。曖昧な感情や、根拠のない希望など、私の辞書には存在しない。
だというのに、だ。
昨日、皇帝陛下から直々に下された辞令は、私の完璧な人生設計を、根底から覆すに足る、あまりに非論理的なものだった。
『アルブレヒト・フォン・リヒターを、新設する『アヴァロン帝国国営鉄道』の初代総裁に任命する。以上』
国営鉄道、だと?
あの、北の変人侯爵が、天才発明家とやらを焚きつけて作ったという、鉄の怪物。先日、帝都の貴族たちを招待して行われた観覧会で、確かにそれのミニチュアは黒煙を吐きながら走っていた。
だが、それは、見世物だ。サーカスの出し物と、何ら変わりはない。
それを、国家の基幹事業とするなど、正気の沙汰ではない。
(しかも、だ……)
私の目の前には、皇帝陛下直筆の、もう一枚の命令書が置かれている。
『総裁としての初仕事である。帝都から、ライルのいるハーグまで、可及的速やかに、鉄の道を敷設せよ。朕は、もっと気軽に、ハーグへ遊びに行きたいのだ。予算は、好きに使ってよい』
(……遊びに、行きたい、だと!?)
私は、天を仰いだ。国家百年の計を、一個人の、それも、皇帝の気まぐれで左右するなど、あってはならないことだ。帝都からハーグまでの距離、およそ四百キロ。その間に横たわる、広大な森林に平原。そこに鉄の道を通す? 一体、どれほどの予算と、どれほどの歳月がかかるというのか。
試算するまでもない。不可能だ。
しかし皇帝の命令は、絶対である。
私は、重い溜息と共に、山のように積まれた資料の、一番上に手を伸ばした。それは、件の蒸気機関車とやらを開発したという、二人の天才に関する報告書だった。
『アシュレイ・フォン・ハーグ侯爵夫人。爆発的な推進力を生み出す蒸気機関の専門家。性格、破天荒にして、常識外れ。口癖は「ヒャッハー!」』
『エックハルト。帝国随一の製鉄技術者。頑固一徹、鉄の塊のような男。口癖は「ロマンで、人は死ぬ」』
(……ろくな奴が、一人もいない)
頭痛がしてきた。だが、私の仕事は、この、ろくでもない天才たちと、そして、あの規格外のハーグ侯爵と、向き合うことから始まるのだ。
私は、すぐに、ハーグへ向かうための馬車を手配させた。もちろん、最新式の、最も乗り心地の良いものを選ばせたが、それでも、あの忌々しい道のりを思うと、憂鬱でならなかった。
数日後。ハーグの城で、私は、その男と、初めて正式に対面した。
ライル・フォン・ハーグ侯爵。
柔和な笑顔。人好きのする、穏やかな物腰。だが、その瞳の奥に、底知れぬ何かを宿していることを、私は、見抜いていた。
「これはこれは、リヒター総裁。ようこそ、ハーグへ。長旅、お疲れだったでしょう」
「……お初にお目にかかります、ハーグ侯爵閣下。皇帝陛下の御命令、既にご承知のことと存じます」
私は、努めて事務的に、そして、冷徹に、この計画がいかに無謀であるかを、数字とデータに基づいて説明した。必要な鉄の量、動員すべき労働者の数、そして、天文学的な予算。
「……以上です。閣下。ご理解いただけましたかな? この計画は、不可能、です」
私の完璧なプレゼンテーションを聞き終えた後も、ライル侯爵は、少しも動じることなく、にこにこと笑っていた。
「なるほど、なるほど。いやあ、すごいですね、リヒター総裁は。僕には、さっぱり分かりませんでしたが、とにかく、大変だっていうことは、よく分かりました」
そう言うと、彼は、一枚の地図を広げた。
「でも、ここに道ができたら、帝都の美味しいパンが、温かいままハーグに届くようになるんですよね? それに、ハーグで採れた新しい野菜も、新鮮なうちに、帝都の皆さんに食べてもらえる。それって、すごく、素敵なことじゃないですか?」
その、あまりに純粋な言葉に、私は、思わず絶句した。
パン? 野菜? この男は、国家の威信をかけた大事業を、その程度の認識でいるというのか。
(……だが)
ふと、脳裏をよぎる。
この男は、いつだって、そうだ。珈琲も、砂糖も、そして、あのバーボンという名の酒も。全ては、誰かの「美味しい」という笑顔のために、この国にもたらされた。そして、その結果が、帝国に、莫大な富と、新しい文化を生み出した。
(……まさか、この男は。本気で、それをやろうと……?)
私の、三十年間、揺らぐことのなかった価値観が、ぐらり、と揺れた。
この、鉄の道が、本当に、帝都とハーグを繋いだ時。この大陸は、一体、どうなってしまうのだろうか。
「まあ、難しいことは、専門家のお二人に任せましょう! さあ、リヒター総裁。まずは、長旅の疲れを癒してください。今夜は、うちの自慢の料理と、とっておきのお酒を用意させましたから!」
ライル侯爵に肩を叩かれ、私は、なされるがままに、宴席へと案内された。
その夜、私が、生まれて初めて口にした『バーボン』という琥珀色の液体が、どれほど私の心をかき乱したか。そして、アシュレイ夫人とエックハルト氏という二人の天才が、どれほど私の常識を破壊したか。
それを語るには、まだ、少し早い。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
この日、私の、退屈で、しかし完璧だった人生は、終わりを告げた。
そして、アヴァロン帝国は、黒煙と汽笛と共に、新しい時代の夜明けを、迎えようとしていた。
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