第110話 新王ジャファルの要求
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴165年 10月15日 朝 曇り』
昨夜の暗殺未遂事件以来、ハーグの城は、鉛色の空のように、重く、冷たい空気に包まれていた。
ファーティマは、娘のジャスミンを胸に抱いたまま、自室に閉じこもっている。その扉の前では、フリズカさんやヒルデさんが、心配そうに寄り添っていた。
僕は、執務室の窓から、そんな彼女たちの暮らす白亜の館を、ただ、じっと見つめていた。
(……許さない)
心の底から、静かで、しかし燃えるような怒りがこみ上げてくる。
僕が、この手で作り上げてきた、温かくて、平和な日常。僕の大切な家族の、穏やかな笑顔。それを、土足で踏みにじろうとした者がいる。その事実が、どうしようもなく、腹立たしかった。
僕が、固く拳を握りしめていた、その時だった。
ヴァレリアが、硬い表情で執務室へと入ってきた。
「ライル様。サラム王国より、正式な使節団が、城門に到着したとの報せです」
「……そうか。すぐに、会議室へ通してくれ」
僕の声が、自分でも驚くほど、低く、冷たく響いた。
玉座の間には、僕と、その両脇を固めるヴァレリア、そして影のように控えるユーディルだけがいた。
やがて、仰々しい身なりのサラム王国の使節団が、部屋へと入ってくる。その先頭に立つ使節団長は、僕の顔を見るなり、尊大な態度で、一枚の羊皮紙を広げた。新王ジャファルからの、親書だという。
「ヴィンターグリュン侯爵、ライル殿に、我が偉大なる新王、ジャファル陛下よりの、ありがたき御言葉である! 静粛に拝聴せよ!」
使節団長は、わざとらしく咳払いを一つすると、その親書を、芝居がかった口調で読み上げ始めた。
「『我が妹、ファーティマ姫が、父王の突然の崩御により、深い悲しみに暮れていると聞き、兄として、心を痛めている。つきましては、姫の身柄を、速やかに我がサラム王国へとお返しいただきたい。故郷の土を踏ませ、家族と共に、その深い悲しみを癒すことこそが、兄としての、そして家族としての、務めであると信じる』……」
その、美辞麗句で塗り固められた言葉の、一つ一つが、僕の逆鱗に触れていく。
家族だと? その家族の命を、昨夜、お前たちは狙ったではないか。
使節団長は、そんな僕の内心を知る由もなく、さらに言葉を続けた。
「……とのことである。ファーティマ姫は、我が国の王女。たとえ他国へ嫁いだとはいえ、その身柄は、我らが王の管理下にあるのが、当然の道理。速やかに、お引き渡しいただきたい」
僕は、静かに、玉座から立ち上がった。
僕が動いた、ただそれだけで、部屋の空気が、ぴしりと音を立てて張り詰める。
「……道理、だと?」
いつもの、気の抜けた僕ではない。一国の王として、一つの家族を守る父親としての、冷たい怒りを込めた声。
「ファーティマは、もはや貴様らの国の王女ではない。このヴィンターグリュン王国の、私の、かけがえのない家族だ。その家族の命を狙った者に、彼女を渡すことなど、天地がひっくり返ってもありえん!」
僕の、明確な拒絶の言葉に、使節団長の顔が、みるみるうちに怒りで赤く染まっていく。
「なっ……! そ、それは、我がサラム王国への、明確な敵対行為と見なすぞ! それでも、よろしいのか!?」
「ああ」
僕は、その男を、虫けらでも見るような、冷たい視線で見下ろした。
「好きにしろ。……だが、覚えておけ。次に我が家族に手を出した時が、貴様らの国が、砂漠の塵と化す時だ」
その言葉は、脅しではない。ただ、事実を告げただけだ。
使節団は、僕の放つ、剥き出しの殺気に、恐怖と屈辱で顔を引きつらせながら、ほうほうの体で、玉座の間から逃げ出していった。
彼らが去った後、僕は、まっすぐにファーティマの部屋へと向かった。
扉を開けると、彼女は、不安そうな瞳で僕を見つめていた。僕は、何も言わずに、彼女と、その腕に抱かれたジャスミンを、まとめて、そっと抱きしめた。
「大丈夫だよ、ファーティマ。僕が、絶対に、君たちを守るから」
その誓いの言葉と共に、僕たちの国と、サラム王国との間に、もはや後戻りはできない、決定的な亀裂が入った。
戦いの嵐が、遠い砂漠の国から、すぐそこまで、迫ってきていた。
「とても面白い」★五つか四つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★二つか一つを押してね!




