第109話 忍び寄る暗殺者の影
【ユーディル視点】
『アヴァロン帝国歴165年 10月12日 夜 曇り』
白亜の館の庭で、ファーティマ様が、力なくベンチに座っておられた。その美しい横顔からは、以前の輝きが消え、深い悲しみの影が落ちている。我が主、ライル侯爵が、その隣で、ただ黙って、優しく寄り添っておられる。
(……父王の死。流行病とは、あまりに出来すぎた話だ)
このユーディルが持つ、帝国内外に張り巡らされた情報網が、サラム王国からの不自然な情報の途絶を伝えてきていた。何か、黒い意志が、かの国の情報を、意図的に堰き止めている。これは、ただの王位交代では終わらぬ。嵐の前の、不気味な静けさ。
その夜、わたくしは、闇ギルドの中でも、影に生きることに長けた者たちを、白亜の館の周囲に、音もなく配置した。ライル様には、まだ告げていない。確証なき憂いで、あの方の心を乱すわけにはいかぬ。
月も星も隠れた、真の闇夜。わたくしは、館で一番高い塔の屋根に、一枚の瓦と化して溶け込んでいた。冷たい夜風が、わたくしのローブを撫でる。
その、風の音に混じって、聞こえた。
ほんの、わずかな、布が枝に触れる音。常人ならば聞き逃す、しかし、闇に生きる者だけが知る、命のやり取りの始まりを告げる音。
(……来たか)
黒い影が、まるで重力など存在せぬかのように、するりと高い塀を乗り越え、音もなく庭の芝生に着地した。その動き、無駄が一切ない。手練れの仕業だ。
影は、一切の迷いなく、一つの部屋へと向かう。ファーティマ様と、その娘君であられるジャスミン姫の寝室。
影が、その窓枠に、そっと手をかけた、その瞬間。
わたくしは、音もなく、その背後に舞い降りていた。
「……月が綺麗な夜ですな。こんな夜更けに、どちらへ?」
わたくしの声に、黒装束の影は、獣のように鋭く振り返った。その手には、毒が塗られたであろう、湾曲した短剣が握られている。その構え、サラム王国に古くから伝わる、王家直属の暗殺術。
(やはり、ジャファルか)
暗殺者が、床を蹴る。その動きは、速く、鋭い。
だが、わたくしの目には、あまりに直線的に見えた。わたくしは、最小限の動きでその凶刃をかわすと、すれ違いざま、彼の両の手首と足首の腱を、寸分の狂いもなく、的確に断ち切った。
声も出せず、崩れ落ちる暗殺者。
騒ぎを聞きつけ、ライル様と、完全武装のヴァレリア殿が、部屋から飛び出してこられた。
「ユーディル! これは……!」
「ご安心を、閣下。すでに、牙は抜いてございます」
ヴァレリア殿が、松明の火で暗殺者の顔を照らす。見覚えのない顔だ。だが、その瞳には、任務に失敗した者の絶望と、そして、捕らえられることへの、絶対的な拒絶が浮かんでいた。
「正体を吐いてもらおうか」
わたくしが、尋問のために一歩踏み出した、その時。暗殺者は、最後の力を振り絞り、自らの舌を、強く、強く噛み切った。ごぼり、と、喉から血の塊が溢れ、その命は、あっけなく尽きた。
ライル様が、悔しそうに唇を噛む。だが、わたくしは、冷静に、暗殺者の懐を探った。
そこには、一つの、決定的な証拠が残されていた。
見事な装飾が施された、サラム王家の紋章が、はっきりと刻まれた、一振りの短剣。
「……これは」
ライル様が、息をのむ。
ファーティマ様も、いつの間にか部屋から出てこられ、その短剣を見ると、わなわなと震えながら、絶望に染まった声で呟かれた。
「……やはり……兄上が……」
その声を聞いた瞬間、ライル様の纏う空気が、変わった。
いつもの、人の良い、どこか気の抜けた青年ではない。自らの家族に牙をむかれた、一国の王の、冷たい怒りに満ちた顔。
「ユーディル」
その声は、冬の夜のように、静かで、そして底冷えがした。
「サラム王国の、全ての情報を集めろ。一つ、残らずだ」
「御意のままに、我が主よ」
わたくしは、深く、深く、頭を垂れた。
遠い砂漠の国で始まった動乱は、もはや、対岸の火事ではない。我が主の逆鱗に触れた、その瞬間だった。
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