第108話 砂漠からの凶報【砂漠の嵐編 開幕】
【ファーティマ視点】
『アヴァロン帝国歴165年 10月5日 昼 快晴』
わたくしたち三人が暮らす白亜の館の庭は、今日も穏やかな陽光と、子供たちの可愛らしい笑い声に満ちておりました。
「まあ、ジャスミン! もう、こんなことができるようになりましたのね!」
わたくしの娘、ジャスミンが、芝生の上で、覚束ないながらも自分の力でつかまり立ちをしてみせます。その小さな背中と、誇らしげにこちらを振り返る笑顔が、たまらなく愛おしい。
近くの木陰では、フリズカ様とヒルデ様が、それぞれのお子様をあやしながら、微笑ましそうにこちらを見ておりました。
「本当に、子供の成長は早いですわね。うちのシグルドも、最近では木の枝を剣に見立てて、振り回してばかりおりますのよ」
「ソフィアも、お花を摘むのが上手になりましたの。ライル様のように、優しい子に育ってくれるとよいのですが……」
立場の違う、異国の姫君。そんなわたくしたちが、今では本当の姉妹のように、互いの子の成長を喜び合い、穏やかな日々を過ごしている。
(ライル様、貴方様がくださったこの幸せな日々が、永遠に続けばよいのに……)
そんな、ぬるま湯のような幸福感に浸っていた、その時でございました。
一人の侍女が、慌てた様子で庭園へと駆け込んできたのです。
「ファーティマ様! 大変にございます! 故郷サラム王国より、緊急の使者が……!」
その言葉に、わたくしの心臓が、嫌な音を立てて大きく跳ね上がりました。良い知らせではない。そんな予感が、胸を締め付けます。
ライル様も報せを聞いて駆けつけてくださり、わたくしたちは、共に応接室へと向かいました。
そこにひざまずいていたのは、見覚えのある、父の側近の一人でした。ですが、その顔は長旅の疲れ以上に、深い悲しみと絶望にやつれきっております。
彼は、震える声で、あまりに信じがたい事実を、わたくしに告げたのです。
「……ファーティマ様。まことに、申し上げにくいことではございますが……」
使者は、一度言葉を切ると、床に額をこすりつけました。
「父君、ラシード国王陛下が、昨夜、流行病により、崩御なされました」
その言葉の意味を、わたくしの頭は、すぐには理解できませんでした。
ぱたん、と、手にしていた扇子が、音を立てて床に落ちる。
「……嘘、ですわ」
ようやく絞り出した声は、自分のものではないように、か細く、震えておりました。
「父上は、誰よりもお元気でした。先月の手紙でも、ハーグ豚のおかげで、ますます壮健だと……。そんな、流行病だなんて……」
ですが、使者は、ただ、悲痛な表情で首を横に振るだけ。そして、追い打ちをかけるように、彼は、もう一つの事実を告げたのです。
「陛下の崩御に伴い、国法に則り、第一王子であらせられるジャファル様が、新国王として、ただいま即位なされました」
(兄上が……)
兄、ジャファルの顔が、脳裏に浮かびます。いつも、どこか冷たい目をし、父上のやり方を「生ぬるい」と批判していた、野心的な兄。
父の、あまりに突然すぎる死。そして、兄の、あまりに早すぎる即位。
それは、ただの偶然なのでしょうか。
(まさか……兄上が……? いいえ、そんなはずは……。実の、父親を……)
頭の中で、否定の言葉が渦を巻きます。ですが、一度芽生えた疑念の種は、黒い染みのように、心の奥底へと広がっていく。
わたくしが、その場で立ち尽くしていると、ライル様が、そっと、わたくしの肩を抱き寄せてくださいました。
「ファーティマ……」
その、温かい胸の中で、わたくしは、ようやく声を上げて泣き崩れることしかできませんでした。
ですが、その涙は、ただ父を失った悲しみだけのものではありませんでした。
遠い故国を覆い始めた、不吉な嵐の気配。そして、兄ジャファルに対する、拭いきれぬ疑い。
わたくしの平和な日常が、音を立てて崩れ始めた、その瞬間でございました。
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