第107話 ええいっ! 我がバーカウンターには何かが足りぬ! そうだ! もう一度ハーグの闇バーへ行かねば!
【ユリアン皇帝視点】
『アヴァロン帝国歴165年 7月1日 夜』
帝都フェルグラント。その心臓部たる我が城の、壮麗なサロン。磨き上げられた黒檀のバーカウンター、黄金のシェイカー、そして世界中から集めさせた最高級の酒瓶たち。何もかもが、完璧なはずだった。
朕は、自ら考案したカクテルを、クリスタルのグラスに注いだ。完璧な色合い。芳醇な香り。だが……。
(……何かが、足りぬ)
一口、口に含む。美味い。だが、あの夜、ハーグの薄汚い路地裏で飲んだ、あの衝撃的な一杯には、遠く及ばない。
(おかしい。カクテルも、バーカウンターも、何もかも、朕のほうが上のはずだ。なのになぜ、あの味を越えられんのだ!)
行き詰っていた。帝国の支配者たるこの朕が、たかが酒一杯に、これほどまで心を乱されるとは。
朕は、グラスを叩きつけるようにカウンターに置くと、決意した。
(……あの場所へ、もう一度行くしかない)
数日後。朕は、供も連れず、お忍びでハーグの街に降り立った。そして、あの田舎侯爵、ライルを呼びつける。
「ライルよ。あの店へ、もう一度案内せよ」
ライルは「ええ~、またですかあ」と、気の抜けた返事をしながらも、どこか楽しそうに、朕をあの路地裏へと導いた。
古びた木の扉を開けると、そこは、相変わらずのタバコの煙と、安物の酒の匂いが充満していた。荒くれ者たちが、朕の顔を見るなり、にやりと笑う。
「よう、ライルのダンナ。また来たのか」
「おう、皇帝じゃねぇか、久しぶりだな」
「まあ、固いこと言わずに、飲んでいけや!」
無礼千万。だが、そのありのままの雰囲気が、不思議と心地いい。
朕は、流れでポーカーの卓に座らされ、気づけば、有り金のほとんどを巻き上げられていた。
「くっ、もう一勝負だ!」
次はダーツで勝負を挑んだが、これも惨敗。面白いように、面白いほど、負け続けた。
だが、なぜだ。悔しいはずなのに、心の底から、笑いがこみ上げてくる。
(そうだ、ここでは……朕は『皇帝』ではないのだ)
帝都のサロンでは、誰もが朕に媚びへつらい、恐れ、決して対等な目線で語りかけてはこない。だが、ここでは、誰もが朕を、ただの遊び仲間、『ユリアン』として扱ってくれる。
足りなかったもの。それは、酒の質でも、グラスの輝きでもない。この、どうしようもなく猥雑で、温かい『仲間』との空気。それだったのだ。
朕は、愕然とした。そして、全てを理解した。
「話がある! この店の所有者と話がしたい!」
朕がそう叫ぶと、店の奥から、二つの影が現れた。闇ギルドを束ねるという、あの影の男ユーディルと、そして、ライルの側妃の一人であり、闇の教皇だという、小柄な銀髪の女ノクシア。
「ほう、我ら闇ギルドを帝都から追放しておいて、どの面下げて戻ってこいと言うのじゃ?」
小柄なノクシアが、冷たい視線で朕を射抜く。
「全くですね」
ユーディルが、静かに同意する。
朕は、その場で、深く、深く頭を下げた。
「……すまなかった。あの時の朕は、若く、そして愚かだった。追放の布告は、ただちに撤回する」
「ふん。分かれば良いのじゃ」
ノクシアが、ふいと顔をそむける。その時、ずっと黙って成り行きを見ていたライルが、場を和ませるように、明るく言った。
「まあまあ、今日は皇帝のおごりってことで! いいでしょ? 皇帝?」
「う、うむ。……そうだ! 今日は朕のおごりだ! 好きなだけ飲むがよい!」
「「「うおおおおおっ!」」」
その夜、店は、地鳴りのような歓声に包まれた。
こうして、帝国を影で支える闇の勢力と、光の支配者たる朕は、奇妙な形で、しかし確かな和解を果たした。
後日。帝都の、とある路地裏に、一軒の闇バーが、ひっそりと開店した。
そこで、時折、全ての身分を忘れ、ただの男として、荒くれ者たちと酒を酌み交わす、皇帝の姿が目撃されたとか、されなかったとか。それは、また、別の話である。
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