第106話 獅子の家の種蒔き
【老執事コンラート視点】
『アヴァロン帝国歴165年 7月25日 昼 快晴』
かつて帝国の東方にその威光を轟かせたダリウス公爵家の庭園は、今や、泥と汗の匂いに満ちておりました。美しく整えられていた薔薇のアーチは取り払われ、代わりに、どこまでも続く畝が、夏の強い日差しを浴びています。
わたくし、老執事コンラートは、その光景を、信じられない思いで眺めておりました。誇り高き獅子の家の、最後の家臣たちが、貴族の礼装ではなく、泥に汚れた麻の服を身にまとい、鍬を手に、黙々と土を耕しているのです。
(ああ……、なんということだ。先代のダリウス様が、この光景をご覧になったら、なんとお嘆きになることか……)
だが、その中心で、誰よりも熱心に土と格闘しているのは、他ならぬ、この家の幼き当主、アルブレヒト様、御年七歳でございました。
「ゲオルグ先生! こっちの土、なんだか固いです!」
「ほう、アルブレヒト様。それは、土がまだ眠っておる証拠ですな。もっと深く、空気を混ぜ込むように、耕してごらんなさい」
ヴィンターグリュン王国から派遣された、ゲオルグと名乗る農夫が、孫に教えるように、優しく、しかし的確に指示を飛ばします。彼は、ライル侯爵の命を受け、この荒れ果てた土地に、新しい命を芽吹かせるためにやってきた、土の魔法使いのような男でした。
最初は、その農夫風情の男に、不満や侮りの目を向けていた家臣たちも、今では、彼の土に対する深い知識と、実直な人柄に、すっかり心酔しておりました。ゲオルグ殿は、まず、城の片隅に巨大な穴を掘らせ、そこに枯れ葉や家畜の糞尿を集め、『堆肥』なるものを作り始めました。
「土も、生き物と同じ。腹が減れば、元気がなくなります。この堆肥こそが、土にとって、最高の飯になるのです」
その言葉通り、黒く熟成した堆肥を混ぜ込まれた畑は、見る見るうちに、ふかふかと、生命力に満ちた土へと生まれ変わっていったのです。
春には、ポテトと名付けられた、ごつごつとした芋の植え付けが行われました。アルブレヒト様は、その一つ一つを、まるで宝物のように、大切に土の中へと埋めておりました。
そして、夏。
アルブレヒト様の、歓声に満ちた声が、畑に響き渡りました。
「じいや! 見て、芽が出たよ! 緑の葉っぱだ!」
指さす先には、土を力強く押し上げて、小さな、しかし力強い緑の双葉が、太陽に向かって手を伸ばしております。その、あまりに健気で、美しい光景に、わたくしの目頭が、不覚にも熱くなるのを感じました。
(……そうだ。我らが守るべきは、過去の栄光ではない。この、幼き主君の、未来なのだ)
季節は巡り、秋。
わたくしたちが、血と汗と泥にまみれて育て上げた畑は、見事な黄金色の恵みをもたらしてくれました。土を掘り返すたびに、丸々と太ったポテトが、ゴロゴロと姿を現すのです。
その夜、城に残った者たち全員で、ささやかな収穫祭が開かれました。メニューは、ただ一つ。大きな鍋で茹でられた、熱々のポテトだけ。
アルブレヒト様は、その湯気の立つポテトを、両手で大事そうに包み込むと、ふーふーと息を吹きかけ、おずおずと、一口、頬張りました。
「……!」
次の瞬間、その瞳が、これまでにないほど、大きく、きらきらと輝きました。
「……おいしい……! じいや、こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べた……!」
その言葉に、周りの家臣たちも、次々とポテトを口に運び、そして、皆が皆、子供のように、声を上げて泣き始めたのです。それは、敗北の涙ではありません。自らの手で、初めて、確かな『実り』を掴んだ、喜びの涙でございました。
やがて、ゲオルグ殿が、ハーグへと帰る日が参りました。
「先生、ありがとうございました! また、遊びに来てください!」
アルブレヒト様が、深々と頭を下げると、ゲオルグ殿は、その小さな頭を、優しく、そして力強く、撫でてくださいました。
わたくしは、馬車が小さくなっていくのを、いつまでも見送っておりました。
誇り高き獅子の家の再興は、剣や栄光からではない。この、土の匂いがする、温かい畑の中から、静かに、しかし、確かに始まっている。
そんな確信が、この老いぼれの胸を、熱く満たしておりました。
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