第105話 ああ、公爵家のはずなのに……
【老執事コンラート視点】
『アヴァロン帝国歴165年 6月15日 夜 激しい雨』
ぽつ……ぽつ……。
かつて、帝国の東方にその威光を轟かせたダリウス公爵家の居城、アイゼンヴァルト城。その大広間に、無機質な水音が、虚しく響き渡っておりました。
(ああ、公爵家のはずなのに……)
わたくし、この城に五十余年仕える老執事コンラートは、天井の精緻な彫刻から滴り落ちる雨漏りを、ただ、呆然と見上げておりました。床に置かれたみすぼらしいブリキのバケツに、雨水がたまる音。それが、今のこの家の、全てを物語っております。
先代のダリウス公爵様が、あの北の田舎王との戦で命を落とされてから、二年。この栄華を誇った城は、まるで魂が抜け落ちた巨人の骸のように、日に日に朽ち果てていくばかり。
かつて、諸侯たちがこぞって貢ぎ物を抱え、挨拶に訪れたこの大広間も、今では訪れる者もなく、壁にかけられた壮麗なタペストリーは色褪せ、誇らしげに並んでいた騎士の鎧には、薄っすらと埃が積もっております。
財政は、火の車。北のヴィンターグリュンから流入する安価な穀物や新しい産物のせいで、我が領地の荘園からの収入は激減。腕のあった家臣や、若く美しい侍女たちは、支払えなくなった給金を理由に、皆、この沈みゆく船から逃げ出してしまいました。
今、この広大な城に残っているのは、先代への恩義を忘れられぬ、わたくしのような年寄りばかりにございます。
「じいや、見て! お水、たまったよ!」
無邪気な声に、はっと我に返ります。
バケツの周りで、小さな手をぱちゃぱちゃとさせて遊んでいるのは、この家の幼き当主、アルブレヒト様。まだ七つの、この家の行く末も、自らが背負う重責も、何もご存じない、ただ無垢な子供。
(おお、神よ……。このお方に、あまりに過酷な運命を……)
わたくしが、胸を痛めていると、城の玄関から、一人の若い衛兵が、慌てた様子で駆け込んできました。
「も、申し上げます! ヴィンターグリュン王国より、使者の一団が、ご到着なされました!」
「なに……!?」
ヴィンターグリュン。あの、憎きライル侯爵の国。
いったい、何の用だ。この、落ちぶれた家に、まだ奪うものが残っているとでも言うのか。
わたくしは、最後の気力を振り絞り、公爵家の執事としての威厳を保ちながら、玄関ホールへと向かいました。
そこに立っていたのは、漆黒のローブを目深にかぶり、その顔を窺い知ることのできぬ、影のような男と、その隣に控える、人の良さそうな農夫風の男でした。影の男が、静かに、しかし有無を言わせぬ響きを込めて口を開きます。
「ユーディルと申す。ライル侯爵の命により、参った」
「……何の、ご用件かな」
わたくしが警戒を露わに問うと、ユーディルと名乗る男は、一枚の地図を広げました。
「この、荒れ果てた貴家の領地。実は、ポテトや、とある新しい作物の栽培に、非常に適した土壌であることが判明した」
彼は、淡々と、しかし、こちらの心を見透かすような声で続けます。
「ライル侯爵は、貴家がこのまま朽ち果てることを望んではおられない。よって、提案がある。我らが技術と種子を提供し、ここで採れた作物は、全て、我がヴィンターグリュンが適正な価格で買い取る。これは施しではない。貴家の『土地』という資産と、我らの『技術』という資産を組み合わせる、対等な取引だ」
続いて、農夫の男、ゲオルグが、力強く言いました。
「この大地は、死んではおりませぬ。正しいやり方で手をかければ、必ずや、黄金の恵みをもたらしてくれましょう。わたくしが、保証いたします」
彼らの言葉は、あまりに突拍子もなく、そして、わたくしたち貴族の誇りを、根底から覆すような提案でした。騎士の剣ではなく、農夫の鍬を取れ、と。
わたくしは、プライドから、即座に断ろうとしました。ですが、その時、わたくしの服の裾を、アルブレヒト様が、きゅっと掴んだのです。
「じいや……? お芋、くれるの……?」
その、純粋な瞳。
ああ、そうだ。わたくしが守るべきは、もはや過去の栄光ではない。この、幼き主君の、未来なのだ。
わたくしは、深く、深く、頭を下げました。
「……お話、お受けいたします。どうか、このダリウス公爵家に、お力をお貸しください」
その日の夜。
わたくしは、アルブレヒト様と一緒に、ヴィンターグリュンからもたらされた、土のついた、ごつごつとした芋の種を、不思議そうに眺めておりました。
外は、まだ雨が降っています。天井からは、ぽつ、ぽつと、雨漏りの音がする。
(アルブレヒト様。我らの新しい戦いが、始まりますな。今度は、剣ではなく、この、芋を武器として……)
それは、誇り高き獅子の家の、長い、長い冬の時代の終焉と、土の匂いがする、新しい時代の、ささやかな夜明けを告げる、雨音のように、わたくしには聞こえました。
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