I
最近は会議のせいで頭痛と胃痛が絶えないんだと、遠い目で私相手に語っていたディートリッヒ様は、会議中そんな様子をおくびにも出さず立派にやり遂げていらした。
会議が終了次第早々に退座されたので痛みが治まっていないのだろう。
心配ではあるが、私が向かったところで何かができるわけでもない。
座って凝り固まった体を動かそうと訓練場へと向かっていく。
道中で城の中庭を横切る形になるのだが、予想だにしない出来事が私を待っていた。
「ヴァルムント様っ! わ、わたくし、そんな、そんなに、体臭が酷いのでしょうか……?」
……私は一体、何を言われたのだろうか。
精神に酷い衝撃を受けた様子のカテリーネ様が、私の胸元に両掌を置き詰め寄ってきた。
動揺しながらも本日の護衛として傍にいたカールへ目線をやるが、軽く左右に首を振っただけで回答はない。
とりあえず距離が近すぎるこの状況を改善しようと後退をしたのだが、カテリーネ様も足を前へ動かし背伸びをされて更に距離を詰めてきた。
「か、カテリーネ様、距離が……」
「近くでないと分からないはずです!」
カテリーネ様は非常に錯乱されている。
カテリーネ様は非常に錯乱されている!
頭の中でそう言い聞かせながら、カテリーネ様の肩を掴んで近すぎる距離を離す。
……離す際につい匂いへ意識がいってしまい、思わず吸い込んで認識してしまった香りは、柔らかなラズベリーとミルクの匂いだった。
「どうでしたか!?」
「カテリーネ様! 淑女がなさる行為ではございません!」
「わたくしは淑女ではございません!」
「カテリーネ様ッ!!」
ただでさえ周囲にいる者達からの視線があったというのに今のやり取りで、より注目を集める形となってしまった。
真相を知っているはずのカールは明らかに目が笑っている。
また余計な噂が生まれるのだと思うと、頭から痛みが主張してきた。
更に拗れる前に状況を整理しようと声をかける。
「……カテリーネ様。何故そのようなことをお聞きになったのですか」
「言われたのです。エルフのアンゲリカ様より……、……『臭い』、と」
「正確には『ああなんと! かように醜悪な臭いがするかと思うたらお主か!』です」
カール、わざわざ物真似をしてまでの補足はいらない。
だが状況は理解しやすくなった。
エルフという種族は緑髪に長耳が特徴で、森を棲み家としている。結束が強く森から出ることもあまりないが、森を守る為ならばどのようなことも厭わない者達だ。
先の圧政によって森に被害が及んだのを、件のエルフが代表して出てきたと聞いた。
しかしながらエルフは長命で他種族を見下す傾向にあり、集団で攻撃してくるならばまだしも、単独で解放軍にいたのは珍しい事態である。
ヘルトがきっかけで入ったらしいが、何故解放軍に入ったのかは聞いていない。
エルフにとって、他種族が大勢いるこの地は好ましくない場所のはずなのだが。
エルフという種族は友好的な種族でないが故に、どんな特性を持っているかはあまり知られていない。
弓術や罠を得意とし、時折魔術も使用している記述が歴史書などにある程度で、市井には『エルフの住む森には行くな。エルフと喧嘩をするな。死ぬぞ』という口伝が残っているのみだ。
後は事実が含まれていないと思われる風聞がされている。
ともあれ、エルフが暴言を吐いてくるのは珍しいことではない。
その上カテリーネ様が言われた暴言を、他の場所で聞いたことがある。
「カテリーネ様、ディートリッヒ様も同様の言葉を言われております。つまり、血か何かが要因で言われたものかと思われます」
エルフも時折会議の場に出席しているのだが、その折に発言された言葉だ。
人間の法に則るならば処罰されて然るべき発言で、私を含めた他数名は立ち上がって抗議しようとしたがすぐ近くの者に止められた。
相手はエルフで、処罰を下したら森に住むエルフ達からの襲撃を受けかねない。
その上問題だらけの現状に余計な物事を増やすのを歓迎する訳もなく、皆口を噤んだのである。
ディートリッヒ様はエルフの発言に目を大きく見開いて驚いていらしたが、言われたことのない言葉が逆にツボに入ったようで大笑いなさっていた。
……そして確認をしたいからと、私にディートリッヒ様自身の匂いを嗅ぐよう指示されたのは今も許していない。
実際に嗅ぐことはなかったが、カテリーネ様とは違う匂いであることは断言できる。
述べた通り、ご兄妹とはいっても匂いが全く同じになるとは思えない。
つまりエルフが言ってきたのは、皇族の特別な力に由来するものではないのだろうか。
「お兄様にですか? なんてことを……。……しかしそれならば、わたくし自身の肉体が原因ではないのですね」
カテリーネ様は胸元に片手をやり、安堵のため息をつかれた。
ご納得いただけたようだ。
私はカテリーネ様の肩に置いていた手を放し、1、2歩下がって距離を取ろうとしたのだが、またもや距離を詰められた。
再び、あの甘い香りが漂ってくる。
「……カテリーネ様?」
「血の力というものを、匂いとして判別できるものですか? どうでしょう、ヴァルムント様。わたくしからそのような匂いは感じ取れますか……?」
「わっ、私では分かりかねます!」
カールが手で口元を覆って見えないようにしているが、あからさまに笑っているのが分かり、護衛が終わり次第に説教をしてやることにした。
不名誉な噂が1つ増え、ありもしない物事が盛られて広まっていくのだろうと、頭を抱えながら屋敷へ帰った日の夜中。
カテリーネ様がいらっしゃる宮が、雪に包まれたとの知らせが入った。
◆
「一体どうなっている!?」
緊急事態ということで静まり返った街中を馬で駆け抜けながら、知らせを持ってきた兵から聞いた説明を頭の中で整理していく。
皆が寝静まった頃合いの話だ。
突如冷気が襲いかかり、城一帯が寒くなった。
どこからともなく雪が舞い散っていき、カテリーネ様の宮を中心として雪が積み上がっていく。
慌てて城内から火魔法が使える者を叩き起こし、溶かそうと奮闘してもらったが雪の勢いが強く追いつかない。
完全に積み上がる前にと、宮内に入って中の人間を──カテリーネ様を救出しようとした。
ところがカテリーネ様の部屋が雪の勢いが一番強く、事態に気が付いたカールが先に動いていたものの、雪に埋もれて凍傷で動けなくなっているゲオフとリージー、他に寝泊まりしていた者を取り出すしかできなかったという。
その間に増えていった雪は、宮を文字通り全て覆い尽くしていった。
原因に関しては心当たりが一つあるにはあるが、本当に心当たりの通りだとすると由々しき事態である。
帝都に住んでいる者の全てを叩き起こしてでも対応に当たらなければならない。
だが城についた頃には雪が止んでおり、全員が今回の対応に追われていた。
馬を兵に任せ武具が音をたてるのも構わず走っていくと、宮の周囲は信じられない程の雪に覆われていた。現在も懸命に火魔法や松明などで溶かしていくか、道具を使っての掘り出しが行われている。
救出された人物は城内への部屋へと運ばれ、すぐに温められると同時に治癒魔法をかけられているという。
人々は対応をしながらも「精霊様が……」と、一番恐れている可能性を口にしている。
その中で、ディートリッヒ様は一番強い衝撃を受けた人物でありながら、真っ青な顔をしつつも懸命に現場の指揮をなさっていた。
「ディートリッヒ様!」
「……ヴァル」
一瞬張り詰めた表情を崩されたが、すぐに指導者の顔へと切り替わり言葉を重ねていく。
「今はヘルトが先頭に立って中を掘り進めている。ついてやってくれ」
本当はご自身が前線に向かいたいはずだ。
ディートリッヒ様より託された想いを胸に、頷いてから雪が大量に残っている中へと入っていった。
「ハァ、……ぐっ、やあああああ!」
炎が光源となり、雪が照らされて真っ白にそまった室内が浮かび上がる。
発せられる炎によって大きく雪は溶けていく。
ヘルトは相当な魔力と気力を使ったのか、息も絶え絶えになっていた。
しかし作業を止める意志は一欠片も見当たらず、交代で他数名の魔術師が炎をぶつけている最中に息を吐いてから、再度炎で奥への道を切り開いている。
先行隊は左側の壁と図面を参照しながら、先を目指していた。
「ヘルト!」
「……しょ、将軍。僕の、僕の力じゃ、まだ……!」
「いいや、お前も、お前達もよくやっている。ここまで掘り進めたらもう少しだ」
「……えっ? だ、だって、部屋はもっと先って聞いて……」
お行儀良く行くならばそうだ。
だが緊急事態であるのに、行儀良くはいられない。
カテリーネ様が待っている。
「全員、ここより右に向かって放て。壁が見え次第、私が壁を壊す」
「無茶ですヴァルムント様! ここの壁は相当頑丈に作られているのをお忘れですか!?」
「他にも考えられる危険な要素がございます! 安全を第一に向かった方が……!」
言われなくとも危険性は理解しており、カテリーネ様にも危険が及ぶ可能性は十分に考えられる。
けれど時間が経てば経つほど、カテリーネ様が生存している確率も低くなっているのだ。
私がここにくるまでの時間を考慮すると、いち早く助け出さなければならない。
ディートリッヒ様も経過時間を懸念されて私に託されたはずだ。
「壁まで到達次第、お前達は退け。後は私がやる」
我が相棒である剣を引き抜き、魔力を剣へと集め壁を打ち破る準備を始めた。
受け継がれてきたこの剣──アスカロンは、氷の魔力を通しやすい素材で作られており、通常の剣ならば壊れるほどの魔力を受け止めることができる。
また、魔力を通せば通すほど切れ味や強度が上がっていく。
アスカロンの剣身に氷が張っていき、周囲よりも更に低い冷気が漂っていった。
……この剣を作り上げるのに相当な時間と金がかかったはずだ、初代の無念の塊とも言っていいだろう。
魔術師達は戸惑いながらも右方向へ火魔法を当て始めた。
ヘルトも同様に魔法を使い溶かす作業へと加わっていくが、私へとはっきりとした口調で宣言する。
「僕も残ります」
「……生き埋めになりたいのか?」
「なりません。僕も将軍も、リーネ姉さんも一緒に出ますから。それに将軍は埋まる気ないじゃないですか」
眩しいと思うほど実直な言葉は、私の心に強く響き貫いていく。
この少年はいついかなる時でも輝いていて、時折羨ましいと思うほどだ。
私はヘルトほど真っ直ぐな気持ちのままでいられない。
カテリーネ様に相応しい男も、きっとヘルトのような男のはずだ。
は、と自分自身に嘲笑しながら、切り替えて返答をする。
「ならば共に行こう。私に合わせることはできるな?」
「はい!」
幾度も訓練場で剣を交わした成果を、ここで発揮するとは思わなかった。
炎が雪を溶かし、壊す予定の壁が露出する。
魔導士達は指示に従って下がっていき、私とヘルトで壁をぶち抜く用意をしていく。
ヘルトが剣を構え、その剣身に炎を纏わせた。
見えている壁を抜けた少し先に、カテリーネ様がいらっしゃる部屋の扉があるはずだ。
「いくぞ!」
壁、雪。
道を切り開く為に、その全てを切り刻んでいく。
剣を薙ぎ振う都度『線』が増え、細切れになっていった。
「やあああああああ!!」
ヘルトが力という力を注ぎ込んで大きく燃ゆ炎の剣を、私が引いた瞬間に叩き込んでいく。
耳へ爆発音が届き、振動が体を揺らし、壁だった破片などが体にぶつかる。
真正面から、線の隙間から、灼熱の炎が何もかも燃やし尽くしていった。
「は、はぁ、っ……、これで……!」
壁があった箇所には、人が入っていけるほどの大きな空洞が出来上がった。
幸運にもあちらこちらが崩れる様子は見られない。
「よくやった、ヘルト。休んでくれ」
炎を出し続けていた上での大技で体力を大幅に削られたヘルトを労い、空けた穴の先へと足を進める。
左手の雪壁の先に部屋の扉があるはずだ。
手袋を取り外し、素肌の手のひらを雪に密着させた。
魔力というものは、自分の身に宿るものである。
体力と同様に、『外』から回復する手段は基本的に存在しないとされているが例外はある。
自分自身と最も相性の良い自然現象ならば、現象を己の魔力として取り込むことも可能だ。
それならば氷を得意とする魔術師を呼び寄せて取り込ませればいいのではないかと思われがちだが、魔力を取り込むにも想像以上の体力が必要となってくる。
安易に実行したら魔力は満ちても体が追いつかないのが目に見えており、非常に効率が悪く推奨されない行為だ。
……今の私は皮肉にも体力が有り余っている。
魔力として雪を取り込み消滅させ、扉まで届かせることができない訳がない。
「……くッ」
手から直に伝わってくる冷たさが、肉体まで浸透していくかのごとく魔力として取り込まれていく。
経験し得ない感覚に襲われ、気力と体力は徐々に削り取られている。
冷気による痛みも体を蝕んでいき、意識が遠くへ飛びそうになるのを懸命に抑えながら、目的の扉まで雪を消滅させていった。
「あった……!」
頭が急速に冴え渡り、走って扉へと手のひらを置いた。
扉越しでは効率が悪くなるが、中の雪も同じように魔力に変換しなければカテリーネ様を救えない。
やらなければならないことだというのに、その先の恐怖を──雪に埋もれているカテリーネ様を見たくない衝動に駆られたが、一気に力を入れて取り込もうとした。
「……どういうことだ?」
中の全てを取り込む勢いで実行したというのに、ほんの僅かな雪を吸収するだけに終わってしまったのだ。
信じられない気持ちのまま扉の取っ手を握って押すと、いとも簡単に扉は開いた。
私が見た光景。
部屋の中には雪が詰まっておらず、誰も──カテリーネ様がいない室内だった。




