サジタリウス未来商会と「消せる記憶」
吉井という男がいた。
30代後半、大手のマーケティング会社に勤めるキャリア志向のビジネスマンだった。
だが、最近の吉井は、夜になると過去の出来事に悩まされ、眠れない日々を送っていた。
「あの時、あんなミスをしなければ……」
仕事での失敗、人間関係の後悔、幼少期の恥ずかしい思い出――彼の記憶には消し去りたい場面がいくつも刻み込まれていた。
特に最近では、プロジェクトのミスでチーム全体に迷惑をかけた出来事が頭から離れない。
「どうして忘れられないんだ。記憶なんて消せたらいいのに……」
そんなことを思いながら帰路についていた吉井は、ある夜、不思議な屋台を見つけた。
それは、薄暗い路地裏にひっそりと佇む屋台だった。
古びた看板には、手書きでこう書かれている。
「サジタリウス未来商会」
「未来商会……?」
興味を引かれた吉井は、吸い寄せられるように屋台へ近づいた。
屋台の奥には、白髪交じりの髪に長い顎ひげを持つ初老の男が座っていた。
その男は吉井を見ると、穏やかに微笑み、静かに語りかけた。
「いらっしゃいませ、吉井さん。今日はどんな未来をお求めですか?」
「俺の名前を知っているのか?」
「もちろんです。そして、あなたが求めているものも分かっていますよ」
男――ドクトル・サジタリウスは懐から奇妙な装置を取り出した。
それは、金属製のペンのような形をしており、側面にはスイッチがついていた。
「これは『記憶消去ペン』です」
「記憶消去ペン?」
「ええ。このペンを使えば、あなたが消したいと思う記憶を完全に消し去ることができます。失敗も、恥ずかしい思い出も、すべて跡形もなく消せますよ」
吉井はその言葉に強く引き込まれた。
「本当にそんなことができるのか?」
「もちろん。ただし、注意点があります。一度消した記憶は戻せません。そして、その記憶が周囲に与えた影響までは消すことができないのです」
「それでも構わない。過去を引きずらずに済むなら、どんな代償でも払う」
吉井はペンを購入し、自宅に戻ると早速試してみた。
ペンの先端を額に当て、スイッチを押すと、脳の中に微かな震動が走った。
「消したい記憶を思い浮かべてください」
サジタリウスの言葉を思い出しながら、吉井は最近のプロジェクトでのミスを強くイメージした。
「これだ……これを消すんだ」
次の瞬間、記憶はすっと薄れ、彼の頭から完全に消え去った。
「これで楽になれる……」
翌日、吉井は職場に出勤した。
だが、チームメンバーがそのプロジェクトについて話すたびに、吉井は奇妙な違和感を覚えた。
「吉井さん、あの時はどうしてあんな判断をしたんですか?」
「えっと……」
記憶を消したせいで、何が起こったのか分からず、まともに返答することができなかった。
「もしかして覚えてないんですか?あんなに大事な場面だったのに……」
チームメンバーの冷たい視線を浴びながら、吉井は胸に痛みを覚えた。
それでも吉井はペンを使い続けた。
学生時代の恥ずかしい失敗や、恋愛での辛い別れ――次々に記憶を消していくうちに、彼の心は軽くなっていった。
しかし、同時に、奇妙なことが起き始めた。
「どうしてこの友達と疎遠になったんだっけ?」
「俺はなぜ、あの仕事を断ったんだ?」
過去の重要な出来事が消えたことで、現在の人間関係や仕事に齟齬が生じ始めたのだ。
「これじゃあ、ただの空っぽの人生だ……」
吉井はふと立ち止まり、ペンを手に眺めた。
再びサジタリウスの屋台を訪れた吉井は、問いかけた。
「ドクトル・サジタリウス、このペンは確かに便利だが、消した記憶が俺にとって重要だったことに気づいたんだ。どうすれば戻せる?」
サジタリウスは静かに首を振った。
「申し訳ありません。一度消した記憶を戻すことはできません。ただ、記憶を消したことで気づいたこともあるはずです」
「気づいたこと?」
「記憶は、良いことも悪いことも、あなた自身を形作る大切な一部です。消すことに執着すればするほど、自分の中身が薄れていくのです」
吉井はその言葉を噛みしめ、深く息をついた。
「確かに、俺は過去を受け入れるべきだったのかもしれない……」
吉井はペンをそっと屋台に置き、頭を下げて去っていった。
数日後、彼は同僚たちとの会話の中で、ふとつぶやいた。
「過去は消すんじゃなく、学ぶためにあるんだな」
サジタリウスの姿はその後も路地裏で誰かを待ち続けていた。
しかし、吉井が再びペンを使うことはなかった。
【完】