ある晴れた夏の日に
きみはまだまだ遠くへ行けるのだ。きみの理想を超え、それ以上の憧れの地よりもさらに遠くへ達する力をきみは秘めている。
フリードリヒ・ニーチェ
味の薄いコーヒーを注いだマグカップを手に、いつものように窓際のハイカウンターへ向かう。
真ん中の席から一つ右へ寄ったその場所は、午後のリフレッシュタイムにおける私の指定席だ。とはいえ、勝手にそう決めているだけだからもちろん先客がいる時もある。今は誰もいない。まあ、たまたまなのだろう。エアコンのかすかな作動音が聞こえるだけだ。
会社のオフィスはビルの十八階にある。この休憩室は南側に位置しており、全面が窓になっている。とても眺めが良い。新宿の都庁や高層ビルの群れが間近に見え、今日のようによく晴れた日には富士山が見えることもある。遥か南にあるはずの海まではさすがに見えなかったが、だから座ってしまうとついつい長居してしまう。だからいつもスツールは使わない。
カウンターに寄りかかり、肘を乗せる。そしていつものように窓から外の街並みへ目を向けると、唐突にそれが見えた。
窓の外、どれぐらい離れているのか?五キロか十キロ先なのか?いやもっとかもしれない。大きすぎて距離感が掴めない。とにかく巨大な黒い物体が浮いていた。街を二つ三つ合わせたような大きさだ。視界のおよそ半分がそれで占められている。もくもくした白い積乱雲と真っ青な夏空を背景にその黒い輪郭がくっきりと際立って見える。
それはドラゴンだった。ドラゴンにしか見えない。竜だ。翼の生えたあのドラゴンだ。鉄で出来た巨大な黒いドラゴンに見えた。
なぜ鉄で出来ているとわかるのだろう。その理由は自分でも不明だったが、とにかく鉄のドラゴンだ。
大空に広げた巨大な黒い翼がゆっくりと上下に動いていた。降り注ぐ真夏の強烈な日差しが反射して、時々、ギラッと光る。
空の高みに浮かんでいるドラゴンの下には東京の街がある。今、私がいるこのオフィスビルは都心から少し外れた地域にあり、数十キロ離れた先まで隙間なくびっしりと建物がある。ドラゴンはその遥か上空にいた。
しかしそれらの建物の群れにドラゴンの影が落ちていない。巨大な鉄のドラゴンには影がなかった。
あり得ないはずの光景なのに、なぜかそうは感じなかった。あれはあそこにある。浮いている。その途方もない重さと熱と存在感を確かに感じる。ドラゴンの体を覆っている黒いうろこは少し赤錆びて煤けており、それが妙にリアルだ。
恐ろしいとは思わなかった。恐怖も畏怖も感じない。急に気が狂ったのでもない。意識はしっかりしている。夢を見ているのでもない。ただ、あそこにドラゴンがいるだけだ。
今日もいつものように六時に起床し、結婚九年目の妻が用意してくれたトースト中心の朝食をとり、シャツを着てネクタイを締め、妻と子供に行ってきますと挨拶してから家を出てバスに乗った。駅に着いたら急行電車に乗りターミナル駅で各駅停車に乗り換えた。会社に着いてからいつものように仕事をこなし、いくつかの決済案件を処理し、取引先へ何本か電話をかけた。昼になったら数人の部下と飯を食いに行き、いつものように午後の仕事をこなし、いつものようにちょっとコーヒーブレイクをと思い、この休憩室へ来た。そして今、窓の外に、途方もない大きさの黒いドラゴンが浮いている。
馬鹿げていると思った。しかしその馬鹿げたものを、今まさにこの目で見ているままに、なぜか当然の事実として自分が認めているのは確かだ。あれはあそこにあるのだ。あの黒いドラゴンは都会の街並みの上空に間違いなく存在しているのだ。
コーヒーを飲むのも忘れ、私は巨大なドラゴンを見ていた。見ればみるほどその全身のディテールがはっきりしてきて細かいところまで見えるようになった。後ろに長く伸びている、やはり縁が赤錆びたうろこに覆われた尾が揺れ、太くたくましい足の先には巨大な鋭い爪が生えている。見ていると長い首が揺れているのがわかる。その首の先の巨大な頭部には黒光りする牙がびっしり生えた口がある。黒いドラゴンの目は青かった。遠く離れた距離にあってもその澄んだ青い目がこちらを見ているのがわかる。でも不思議と恐ろしくはない。
私から見てドラゴンは私の視線のちょっと上に見えていた。ということは地上から百メートルほどの高みに浮かんでいることになる。
いつまで見ていても飽きなかった。いつまでも見ていたいと思った。しかし腕時計の針はすでにこの休憩室へ来てから四十分が経過していると告げていた。
窓の外に馬鹿でかい竜が浮かんでいたとしても、いくらなんでもそろそろ仕事に戻るべきだ。やるべき仕事を放置したままで、いつまでもドラゴンを眺めているわけにはいかない。
仕方がない。戻るか。そう思った時、私の心を読んだかのように、休憩室の入り口から私の部下の女性社員が顔を出して私を呼んだ。
「休憩中のところすみません。篠崎課長宛にお電話が入っています」
「ああ。すぐに行く。誰からだ」
「STコーポレーションの原田さまからです。先日の件でとおっしゃっていて」
呼びに来た女の子へうなずいてみせ、ドラゴンに目を戻すと、その、ずらっと牙の生えた口がゆっくり開いていくところだった。そして…。
「ゴゥゥァァァアアアアアウウウオオオオオオンンンンン…」
ドラゴンが吠えた。その咆哮は分厚いはめ殺しのガラス越しでもはっきりと聞こえた。窓ガラスがびりびり振動する。しかし私の部下は訝しげな顔で私を見ているだけで、何の反応もなくそこにいた。
やはり、と私は思った。きっとそうなのだろうと思っていた。あのどでかい黒いドラゴンは私にしか見えないのだ。その咆哮も私にしか聞こえない。もしも彼女に天空に浮かぶドラゴンが見えていたならパニックを起こしたはずだ。私だけにしか見えず私にしか聞こえない。私にとっては間違いなくあそこに存在しているのに、その巨大な体は大地に影を落とすことなく、でも確かにあそこにいる。
青い目が遠くからこちらを見ている。私は視線をそらし、仕事に戻るべく、リフレッシュルームをあとにした。