64話『ドミニウム達の権利と責務』
薄暗い極夜の中…傷だらけのイシュタルは、姉のエレシュキガルが呼び出した【冥海の黒鯨牛】を目の当たりにして思わず立ち尽くしてしまう…
一瞬、考える間を見せたイシュタルが、溜め息を軽く漏らす。
「分かりましたわ…姉さん…この戦いは私の負けです。」
負けを宣言したイシュタルは、メイスと盾を形成していた術式を解除した後、さらに言葉を続ける。
「この魔力も生命力も使い果たした状態で、黒鯨牛に挑んだところで負けるのは明白ですから…姉さんに勝利をお譲り致しますわ。」
両腕を上げた状態でイシュタルが、エレシュキガルの前で両膝を付く。
「引き際を見極められるイシュタルさんなら、そう言ってくれると思っていたから良かった…良かったよ。」
そう安堵の声を告げたエレシュキガルは、イシュタルに歩み寄ると…両腕を下げて立ち上がる様に諭す。
「統括長同士としての戦いは、ここまでにして…久し振りに只の姉と妹として少し話をしない?」
「へぇ?…ふっふふ、そうですわね。」
エレシュキガルの予想外な提案に対して、イシュタルは驚いた素振りを見せつつ快諾する。
「オッケー!ちょっと待ってね…ティーセットを展開する為には…ええと…」
エレシュキガルが、黒旗に描く術式を思い出していると…
「姉さん、紅茶セットなら…わたくしにお任せあれ。」
自慢気に答えたイシュタルは、残る魔力を駆使して紅茶セット一式が収まる鞄を召還する。
「流石は淑女系バーサーカーの妹だね…」
「えぇ、紅茶は淑女の嗜みの一つですから当然ですわ…って!その呼称は止めて下さいと何度言えば分かって頂けますの!」
イシュタルがツッコミを入れた直後、2人の姉妹として微笑む。
ーーー
「そうですか…なら、わたくしは天の舟【マアンナ】を準備した方が良さそうですわね…」
エレシュキガルのこれからの計画を聞かされたイシュタルは、紅茶を一口飲みながら【再構築計画】による犠牲を少しでも減らす計画を練る。
「そう動くのは、帝国西圏側の統括長としての権利と責務から来る使命感なのかな?」
エレシュキガルがうん…うん…っと頷いたあと、問い掛ける。
「えぇ、そうですわ…統括長として負けたとしても、この帝国の国民を守る為に善処するのは…創造主の方達から授かった使命の一つですから。」
敗者でありながらもイシュタルの瞳からは、使命感という強い意志が残っている。
「まぁ…私達、統括長達は…創造主からこのメソポタミアの地を治める権利を借りてるだけに過ぎないしね…」
そう溢したエレシュキガルも紅茶を飲み一息付く。
「今回の【再構築計画】後の新たな帝国でも、イシュタルには働いて貰う予定だからそのつもりでね。」
微笑みながらエレシュキガルが握手を求める。
「えぇ、お任せあれ…地下の古びた校舎に引きこもっていた姉さんでは色々と分からない事もあるでしょうし…」
皮肉混じりにイシュタルも右手を差し出そうとするが…
その瞬間、イシュタルは背後から胸を、一本の矢で撃ち抜かれる…
「えっ…なんですの…これは…」
そう驚きの声を呟いたイシュタルが、座る椅子から落ちそうになる。
「っう!一体、誰が?」
イシュタルが地面に倒れる直前で、抱き支えたエレシュキガルが周囲を見渡す。
「あは…あはは!皆の敵をようやく打てたよ…冥界の執事のみんな…」
矢を放った正体は、第四騎士団にて秘書を務めるエルフのグレイだった…
「グレイか…どうして私の言いつけを破ったのかな?」
冥界の執事達の主であるエレシュキガルが、怒りを抑えながら問い掛ける。
「あぁ、エレシュキガル様…私はどうしても許せなかったのです…冥界攻略の際に同胞を虐殺したイシュタル様の事を…」
かつての仲間達の敵を打てた事による高揚感と…エレシュキガルとの取り決めを破棄した事による罪悪感の狭間に立たされるグレイは、言葉にならない叫びを上げる。
「そして、ありがとう…ダージリン…私のことを見逃してくれて…」
第四騎士団の団長であるダージリンに対して感謝を述べたグレイは、次の瞬間…血飛沫を上げながら倒れ込む。
「はぁ、はぁ…グレイ…死者に囚われ過ぎて、今を見失うとは冥界の執事として失格ですね。」
グレイへ最後の剣撃を加えたドゥムジは、左肩に矢を食らった形跡が見られ…息が上がっている。
「エレシュキガル様、申し訳ありません…一瞬、隙を突かれてしまいました。」
そう短く謝罪したドゥムジが、イシュタルを膝に乗せるエレシュキガルの元に歩み寄る。
「ううん、そんなことよりも…私がイシュタルの止血をしている間、周囲を見張ってくれる?」
そう答えたエレシュキガルが、治療の為に魔力を込め始めるが…
「はぁ…はぁ…姉さん、そのお気持ちだけで結構ですわ…この弓矢は、私の…過去の過ちが、私に舞い戻って来たですから…それに…」
意識が朦朧としながらイシュタルが続ける。
「姉さんの計画の為にも魔力を温存して下さいませ…勝者として、再構築計画を遂行する事が私への手向けになりますから…これから、忙しくなりますよ…姉さん…」
冥界の主であるが故に、イシュタルの生気が完全に失われた事が真っ先に理解出来てしまう。
「はぁ…今の帝国の在り方を変える為に…再構築計画を実行して良かったよ…」
雨音が更に強まる中…生気を失った妹に対して黙祷を捧げた、姉が更に続ける。
「本当に…この世界は、歪に傾き続けるよね…」
そのエレシュキガルの一言の後に…極夜の空を泳ぐ黒鯨牛が泣く。




