急がば回れ
不貞寝した。それはもう大いに不貞寝した。
泣き続ける女神を慰めてやれる程の余裕もなく、ふらふらと最初の部屋に戻り、硬い石の床で寝転がって夢オチを期待して眠り続けた。
ここには何もない。布団どころか布きれの1枚もない。
どれだけの時間眠り続けただろうか。
窓もないから朝昼晩があるのかさえわからない。
その間、女神が部屋に現れる事はなく、俺も鏡の部屋に行く事はなかった。
突然連れて来ておいて気にかけてもくれない女神に思うところはあったが、目が覚めた時に聞こえてくる泣き声に何かを言う気も失せた。
泣きたいのはこっちの方だとも思うし、可哀想だとも思う。
ある時ふと、おかしいと思った。いや、おかしい事だらけではあるのだが。
腹が空かないのだ。人間の三大欲求である食欲が一切反応していない。
あんまりな状況に食欲が沸かないだけだと思っていたが、俺の体は痩せ細る事もなくここに来た時と全く変わっていない。
その上……汚い話ではあるが、排泄欲すら沸かないのである。
何も飲み食いしていないからだとも考えたが、例え断食しても排泄は行われると聞いた。
よく考えたら睡眠欲もないかもしれない。
これだけ寝続けて何をと言う話ではあるが、寝たいと思っているから寝ているだけで、目が覚めた時のすっきりとした感覚も、寝すぎた時の体の怠さもない。
体を起こす。床の上で寝続けたと言うのに体のどこにも痛みはない。
立ち上がって歩く。ずっと横になっていたのにいつもと変わらない動きで歩ける。
「……はぁ……」
大きく溜息を吐いて、部屋から出る。
俺の体だか魂だかが安定するまで寝続けたって構わないが、いい加減話すべきだろう。
そもそもどれだけここに滞在したら安定するのかも分かっていない。
1年くらいならまぁ寝て過ごす事も不可能ではないかもしれないが、十年単位とでも言われたらさすがに眠り続けるなんて無理だ。
久しぶりに開いた扉の先では、やはり女神が鏡の前で泣いていた。
よくもまぁこれだけ長い間泣き続けられるものだ。
「……おい」
「……ぅ……っく……」
「おいって」
「スン……ヒック……」
「泣き虫女神!」
「っ! は、はい!」
漸く振り向いた女神が俺に気付いて、またぼろりと大粒の涙を零した。
「ご、ごめんなさい……あ、あれ……?
……私はどれくらいここで……え、あ、ごめんなさい。
私、貴方に何の説明も……説明どころか……」
「……とりあえず、話を聞かせてくれ。
滅んだ世界に絶望してるのは分かったから、そろそろ考えてくれ」
「あ、はい。あの……」
「俺の体……魂か? が、安定するまでにどれくらいかかる?」
「その……1,000年……」
「せんねん……? は!? 1,000年!?」
「ひっ……ごめんなさい、ごめんなさい!
あの、貴方がいた世界であれば、1年も掛からないでしょうが……ここは、私の世界は……とても矮小で脆いので……」
1,000年。そんなに生きていられるわけがない。
死んで魂だけになって帰されたって、それはもう死後の世界に送り出されているだけだろう。
「生きて帰れない、のか……?」
「あ、あの、それは、大丈夫です。
ここでは時が停止していますから……あ、ここと言うのは、えっと……天界ですね。
私の家があるだけなので、天界と言う程のものでもないですが……」
「時が停止って……天界で1,000年過ごしても意味がないって事か?」
「いえ、その……説明が難しいんですが……成長が止まると言いますか、その……1,000年分の時間が過ぎれば、はい。
あくまで天界で過ごした時間なので、地上の時間とは違って……でも、その、天界には死という概念はないので……」
「……天界で1,000年過ごせば今の年齢のまま安定するって事で良いか?」
「あ、はい。そんな感じです……」
死なないなら良いと言いたいところだが、ただの人間が1,000年もの長い時間を生き続けられるとは思えない。
もう死にたいと願う程に精神がおかしくなるんじゃないだろうか。
「この世界が脆くなくなったら、安定するまでの時間は早くなるのか?」
「そうだと、思います……長久な世界はそれだけ力がありますから……」
「……とりあえず、分かった。それで、俺はこの先どうしたら良い?
俺に……いや、誰でも良かったんだろうが、あんたが助けて欲しいと願った世界はもう滅んでいる。
俺がここにいる意味はもうないだろう?」
「あの……その……助けて欲しいって願いは……この先も続きます。続くと、思います。
何度も滅びました。その度に何度も造り直して……滅びました。
だから……だから私は永遠の世界が造りたいんです。もう、滅びる世界は見たくないんです」
「何度も滅びた……?」
「はい。もう数える事も止めてしまいましたが、5,000までは数えていたように思います」
「は……そんなに世界って滅びるものなのか?」
「……いえ……1度や2度なら姉様兄様達もあったそうですが……」
「……あんた……神様向いてないんじゃ……」
俺の言葉に女神は俯いてぐっと下唇を噛んだ。
「……私も……私も、そう思います」
その言葉はか細く震えていて、酷く頼りない声だった。
「……あー……あのさ、女神がどうにも出来ない世界をただの人間の俺がどうにか出来るわけ……ないんだけど、まぁ……1,000年? も、待てないし。
とりあえず、長く続く世界は強い世界って事だよな?」
「はい、そうです。明確には分かっていませんが、文明が生まれて時が経てば或いは。
文明の始まりの定義をどう捉えるのかにもよりますが……」
「文明が生まれてからって事は……人間が生まれるまでも含んでんのか。
……は? 億かかる感じ……? 人間生まれる前に俺安定してんじゃねぇか」
「あ、その……天界と地上では時間の流れが違いますので……。
それに、ええと……何て言うんでしたっけ……あ、そうです。
鏡で早送りが出来るんです。一時停止や巻き戻しはできませんが……」
「早送り……」
「厳密には違うんですけど……はい。天界の時間が止まっているからそう感じるだけで……地上の時間が早く感じるようになると言いますか……」
「あー……まぁ、わかった。実際に何十憶年も見てる必要はないってのはわかった」
こればかりは実際に見て体験してみないとわからなさそうだ。
「俺が早く帰るには世界を救うしかないってのもわかった。
何も出来ないから助けるなんて言えないけど……手伝う」
「っ……! ほんとう、ですか……?」
「手伝いすら出来ないかもしれないけど。何したら良いかもわかんないし」
グチグチ言ってたって何も進まない。
引き籠って寝続けるにも限度がある。そんな生活続けてたら早々に精神が崩壊しそうだ。
今は一旦それについては放置して、いつか帰れるようになった時に『二度とこんな真似すんじゃねぇぞこの馬鹿女神!』とでも言ってやれば良いだろう。
「あ、あり、ありがとう、ございます……! っわ、私……っ……!」
「あーあー……すぐ泣く……俺、久遠颯」
「わた、私は、************」
「なんて?」
「あ、ご、ごめんなさい! えーと……姉様はなんと呼んでくださっていたかしら……。
そう、そうです。ルーナイリアエーデルヴァイオレット」
「長い長い長い」
「兄姉が多いので……」
「もう1回」
「ルーナイリアエーデルヴァイオレット」
「るーなりえ……おっけ。女神な」
「……はい……」
しょんぼりしている女神に僅かに罪悪感が沸くが、覚えられないんだから仕方ない。
「あの、ハヤトさん。これから、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。で、だ。俺はこの世界について何も知らないわけだし教えてくれ……って言っても、滅んでんだよな……」
「あ、大丈夫です。基本の仕様は同じなので。
ですが先に……世界を造りますね。ハヤトさん、鏡を見ててください」
そんなほいほい造れるものなのだろうかと疑問に思いつつ頷いて、鏡の前にいる女神の横に並んで一緒に鏡を覗き見る。
今は轟々と燃え盛る炎だけが鏡一面に映っている。
鏡ではなく赤色の絵だと言われたほうが納得できるような状態だ。
あの時と同じように手を組んで祈りを捧げる女神を視界の隅に捉えながら、地上を映しているという鏡へ視線を向ける。
洪水の時のように炎が鎮火していくのかと思いきや、何かに吸い込まれるように炎が中心に集まっていく姿が映し出された。
「あの、この辺りを触ってみてください」
頭を傾げつつ言われた通り鏡の淵の上の方に触れると鏡に映る世界がズームアウトした。
触れる前は真っ赤に燃える炎ばかり映し出されていた鏡には、宇宙にぽつんと浮かぶ真っ赤な球体が映し出されている。
早送りだけじゃなく拡大縮小まであるのかと驚いている間も鏡の中の世界は忙しなく変わり続ける。
真っ赤な星は少しずつ小さくなり、周りの星々を巻き込み始めた。
みるみるうちに中心に吸い寄せられ……いや、圧縮されているのだろうか。
全てが小さな点になったその瞬間、大爆発が起こり鏡の中が真っ白に染まった。
これは、ビッグバンのようなものなのだろうか。そうだとしたら、本当に一から造り直すらしい。
「……大丈夫そう、ですかね。えっと……暫く待てば世界が誕生します。
その間は早送りにして、この世界についてお話させていただきますね」
「お、おお……」
改めて神なんだなと思う。神は神でも創造神。
泣いている姿ばかり見ていたせいで威厳も何もないが、少しばかり委縮してしまう。
「まずは……この世界について。
ここはハヤトさんがいた世界と比べると凄く小さな世界です。
その……私も最初は地球サイズの世界の管理を任されていたのですが……上手くいかなかったので、この世界の管理に……」
しょんぼりと肩を落としながら紡がれた言葉はなんとも同情を誘う内容だ。
つまり業績が悪くて僻地に飛ばされたと言う事だろう。この女神大丈夫だろうか。
「小さいので、国は多くても5つ程しか出来ません。大体2つか3つか……。
何度も滅んだこの世界は力も弱く脆いので、すぐに滅亡の危機を迎えます」
「なるほど……」
「滅亡の予兆を察知して、奇跡で止めることが私の仕事です」
「あー……」
止めようとして、地上と太陽がドッキングなんて事態になったのか。
多分だが……この女神は奇跡を使うのが壊滅的に下手なのだろう。
「私は天界にしかいられません。
ですので……ハヤトさんには地上に降りて予兆を……」
「止める手伝いをすれば良いんだな?」
言いにくそうに口を閉じた女神の言葉の続きを紡げば、女神はやはり申し訳なさそうに小さく頷いた。
気にしなくて良いとまではまだ言えないが、今はとにかく今後の話をしておきたいので、さくさく話してくれた方がありがたい。
「そもそも、地上で言葉は通じるのか? 女神とは話せてるけど」
「はい。先程私の名前が聞き取れなかったように、ハヤトさんの世界と私の世界では言語の違いがあります。
今私とハヤトさんが話せているのは所謂、神様パワーってやつですね」
「神様パワー」
「実際には私はこの世界の言語、ハヤトさんは地球の言語を話しているのですが、神様パワーによってお互いの言語に翻訳されています」
「ってことは地上に行ったら言葉が通じないって事か?」
「いえ……その……そういう繊細な調整が出来なくて……地上でも同じ状態です。
よって、この世界に言語の壁はありません。本当は2つ以上の言語が使われていたとしても、そうと気付く人もいません」
「逆バベルの塔……」
「バベル……ああ、姉様が話していました。
天まで届く塔を作ろうとして神の怒りを買ったとか……私としては、天まで遊びにきてくださる程の文明なんて羨ましいですが……」
「……まぁ、それは良いとして。名前が聞き取れなかったのは?」
「簡単に言いますと翻訳出来ない言葉ですね。
お互いの世界にしか存在しない言語、または翻訳が難しい言語は翻訳できません」
なるほど。英語と日本語でも意訳と直訳が違ったりする。
女神の名前は俺の知る日本語では表現できない名前と言う事だ。
「俺の名前は通じてるんだよな?」
「はい、クオンハヤトさんですよね。
あの、私、日本語は分かるんです。その……漫画を読む為に、姉様に教えていただいたので……」
「道理でちょこちょこ俗世にまみれた話し方するわけね。分かり易くてありがたいけど」
「今は私がハヤトさんの名前を認識しているので、地上でも通じるようになってますよ。
まぁ……今はまだ会話ができる生命がいませんが……」
「……とりあえず、言語の問題はないってことね」
「はい。もし分からない言葉があれば、私が天界から通訳しますのでお任せください」