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「でも、こうして人と一緒に帰るのも悪くないかもしれませんね。もうちょっと、早く知るべきでした。それと、一つお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「ん? なんだ?」
信号待ちの交差点で、辻中は、俺の方を見る。心に残るその言葉は、一体、何だろうか。
「私の事を……その……下の名前で呼んでもらえないでしょうか? あ、別に嫌なら嫌でいいんですけど……つまりは……そうですね……いえ、この事は、忘れてください!」
辻中は、再び、顔を赤く染める。彼女がこんなにも必死になって、自分で変わろうというところは、尊重したい。だからこそ、俺は、彼女の願いを叶えるのだ。
「それくらいなら別に構わねぇーよ。名前で呼び合うくらい、何も恥ずかしい事はないと思うぞ。それに俺の事も名前で呼んでくれると助かるからな」
「え……」
辻中は驚いていた。男である自分を名前呼びはさすがに恥ずかしいかもしれないが、別にそれを気にしても仕方がないし、それに俺が彼女の性格を少し知っているうえで、心のどこかで、彼女の事が好きになっているのかもしれない。
信号が青になり、自転車を漕ぎ始める。後、三つ信号を過ぎたところで俺たちはそれぞれ二手に別れ、それぞれの家へと帰る。
「葵……」
「は、はい! な、何でしょうか?」
辻中も自転車を漕ぎながら、自分の下の名前を呼ばれて、声のトーンが変わる。
「明日の昼、ちょっと時間をもらえないか? ちょっと知り合いに紹介したい奴がいるんだ」
「わ、分かりました。昼食はどうすればよろしいでしょうか?」
「そうだな。一応、場所を移動することになるから一緒に持ってきて、そこで食べればいいと思う。まぁ、少し長くなりそうだから、そこのところは任せるよ」
「はい、分かりました。それって、天使の事について詳しい方を紹介してくださるのですか?」
「そうなるな。でも、葵も知っている人だから安心してくれ」
「私も知っている人ですか……。世間は狭いものなんですね。陣君が、隣にいてくださると、なんだか、ホッとします」
辻中は、微笑みながら言った。
辻中との別れの時間が、刻々と迫ってきた。あそこの信号を過ぎれば、お互いの家にそれぞれ別れることになる。
「じゃあ、また、明日な」
「はい、また明日。今日は色々とありがとうございました。さようなら」
夕日をバックに映る彼女の姿を目に焼き付けた俺は、このシーンを忘れることは、一生ないだろうと感じ取った。