5.父、驚く
「お父様、ただいま帰りました」
元気よく馬車から降りて玄関で声を出した。父が屋敷のどこにいても聞こえるであろうほどの大きい声で。だが返事もないし、室内にいる気配も感じられない。荷物をその辺に置いて中庭に出れば、奥にある畑へ通じる小道の際のウォータービューで手を洗う父の姿があり、駆け寄った。
「おお、ディーおかえり。……その膝はどうした?!」
首に掛けた手拭いで手と顔の水気を拭いながら、娘の膝に巻かれた薄緑色の布の存在に気づく。頭の中で咄嗟に状況を作り上げ、口にした。
「まさか、ズサーってなって、オホホホ! じゃあるまいね?!」
一瞬の間を置いて、アマンディーヌの冷たい声がした。
「……まったく意味がわかりませんね!」
娘に一蹴されながら屋敷に戻り、居間に向かえばお茶の用意がされていた。
「虐められたのじゃなければいいんだ。じゃあ一体それはどうした、むやみやらたに傷を作るものではないよ」
ソファに腰を落としてお茶を啜りながらアマンディーヌを見た。
「傷ならきちんと処置しないといけない、布を取ってみなさい」
何の傷かわからないが、洗い流して消毒までしないといけない。菌が入ったら大変なことになる。畑作業でそういう傷はいくつも見てきた。
「これは、飛び上がってしゃがんだ時、目の前にあったベンチに思い切りぶつけたのです、そこにたまたま居合わせた殿方が巻いてくださっ――」
話し途中で思い出した。医務室へ行けと言われたのに忘れて行かずに帰宅したことを。このハンカチの持ち主のことを。
目の前の父親は、なぜ昼に飛び上がってしゃがむ必要があったのかを聞いてきていたが、ハンカチに刺繍された、剣と花を見た途端、言うべき事があることも思い出した。
「そう、お父様! このハンカチを巻いて下さった方をお父様に紹介したいのですけど、ご都合は――」
カップに口をつける前で良かった。父親は危うくお茶を噴いてしまっただろうくらいに驚いた。
「え、殿方が巻いてくれたと、そう言ったよね? その殿方とは、その、なんだ」
「あっ! 変な想像はおやめくださいね? ユベール様とは今日お会いしたばかりで清い関係です! いやそうじゃなくて」
少し動揺する父に構わず話を続ける。今日会って、もう膝に布を巻くほど? では飛び上がってしゃがんだというのは奴に何かされたんだろうか。父は眉間に皺を寄せてしまった。
「お父様……変な勘ぐりはおやめください。実は昼に怪我をしたところに居合わせたユベール様――ユベール・ケイタ・バレット様とおっしゃる方です。その方がハンカチを巻いてくださり、そのお礼というわけではなかったのですが、わたくしのこの手当てのために昼食を召し上がる時間がなくなったも同然でしたので、おにぎりを……」
はあーっとため息を漏らす父。
「おまえね、おにぎりは強烈だから人様に差し上げるのはやめなさいってあれほど」
アマンディーヌは幼い頃、おにぎりを遊びに来た友人にあげたことがある。初めて見るそれを訝しんだ彼らは投げあって遊びだし、地面に落ちてしまった。こんなもの食えるか、とまで言われたと泣いて帰ってきた事がある。それがあるから、あまり人にはあげないようにと言ってきたのに――。
「何となく、彼ならバカにしないって思ったんだもの。それで一つ差し上げたら、食べながら涙をポロポロこぼされたのよ。懐かしい、嬉しいって」
これを聞いて父親は固まった。
「――まさか」
驚いて一言漏らした父を真っ直ぐ見据えて、強く頷く。
「おそらくユベール様は、お祖母様と同じなのではないでしょうか。今は辺境伯様の御子息というお立場ですが、養子なのだとお話ししてくださいました。8歳の頃、森の奥に倒れていたのを辺境伯様に助けていただいたそうです。正式な手続きを経て辺境伯様の養子となられました。ですから、お父様に会っていただいて彼の話を聞き、もしお祖母様と同じなら、我が家の事を彼に話して……彼の気持ちの拠り所というか、弱音を吐ける場所になるかも、というか、滅多に居ませんから、転移者なんて。あの、いけませんか」
上目遣いで父を見る。
「そういう事なら明日にでも連れてきなさい、田んぼを見せてあげよう。何ならおにぎりだってご馳走するし」
「でも明日から3日は田植え休暇をいただいてますから、早くて4日先です」
「いつでも構わないよ、ユベール殿の都合がつき次第連れて来なさい」
父と娘は意見が一致した。