鬼隊長が僕の姉ちゃんに恋をした〜隊長と姉ちゃんが恋人同士になるまでの短い話
朝早くから出勤して、昼までに仕事を終わらせ、兵舎を出る。
テストニア領主の私兵隊の第一隊隊長『炎纏の獅子』ことゼヴァン・アッカートは、今から人生で最も慎重にすべきイベントに向けて、気を引き締めつつ馬車に乗り込み目的地へと向かった。
----うむ、気持ちの良い天気だ。
昨夜から心配していた天気も、夜明け前から快晴を約束する程空は澄み渡っていた。これはもう、今日の成功を天が約束していると言っても過言ではない。
今日は朝から逆立つ髪を後ろに撫でつけ、洗い立てのシャツを身につけ、靴を綺麗に磨き、隊長の証であるバッジを磨いてきた。見せるつもりはないが、いつもより入念に剣も磨いた。
準備は万端。どこから見ても男らしいと自分でも思う。
----セレディアさんと会うのは今日で二回目…何としても好印象を残さないとな。
今から一か月程前、ゼヴァンは入隊二年目の新米兵士であるエイジン・ヨーウェンの姉セレディアを一目見て、一瞬で恋に落ちた。
蜂蜜色の長い髪、若葉のような緑色の瞳、愛らしい小さな唇に、真綿のような優しい微笑み。
女神だ、と思った。
「それなら入れ違いにならなくて良かったわ。それじゃあ私はこのまま仕事場に行くから、午後もがんばってね。」
そう言って背を向けた女神の後ろ姿は背筋が真っ直ぐに伸びていて美しく、それでいて華奢だった。
扉の向こうに消えた途端あれは幻だったのかと得体の知れない絶望を感じたが、目の前にいる若い兵士は残っている。よしコイツに聞いてみよう、と声をかけたらまさかの弟だった。
その日の翌日。
ゼヴァンはエイジンの協力もあり、一度だけセレディアと顔を合わせて言葉を交わす事に成功した。丁寧な言葉遣いも、高く柔らかい声も、口元に手を添える仕草も何もかもが、長年冷たく凍っていた胸を熱く高鳴らせる。
そしてその時見せたセレディアの笑顔に、完全に心を持っていかれてしまった。
となれば、できるだけ早くお近付きになりたい。それにはこの弟と仲良くなるのが一番早いと判断し、ゼヴァンはエイジンを見かけては声をかけていた。そして。
「姉ちゃんが、食事のお誘いを受けさせて頂きますって言ってました。」
未来の義弟からこの返事を受けた時、ゼヴァンはゴツい拳を握り締めるに留めて、心の中では小躍りする程喜んだ。
「そうか。セレディアさんは何が好きだ?嫌いな食べ物や苦手なものは無いか?」
「姉ちゃんは何でも食べますよ。あ、でも辛いものは苦手です。」
「フッ、苦手なものまで可愛らしいじゃないか。」
ふと、目の前にいるエイジンを見た。最初の頃とは違い、自分を見る目に怯えがない。訓練場で対峙すれば最初から最後まで怯えて震えてへっぴり腰だが、こうして普通に会話をする分にはずいぶん肩の力を抜くようになった。
----良い兆候だ。
義兄弟になってまで他の兵士達のように恐れられていては、円滑な家族関係にヒビが入ってしまう。ましてや夫と弟の関係が複雑だと、セレディアが間に挟まれ辛い思いをするだろう。それだけは避けたかった。
兵舎からヨーウェン家の家はそれ程遠くなく、馬車で移動したのですぐに着いた。馬車を降り、少し歩いて喉の調子を整えてから扉を軽く叩く。すると中から鈴の音のような愛らしい声が返ってきた。
「こんにちは。」
「あっ、こ、こんにちは。あの、すぐに出て参りますので、少々お待ち下さい。」
「はい。慌てなくて大丈夫ですから。」
ゼヴァンがそう言うと、セレディアは申し訳なさそうに微笑んで扉を閉めた。
----可愛い!!
デートだと意識してくれているのか、チラと見えた表情は薄く化粧がされていた。それがまた、とんでもなく可愛い。今日予約したのは新鮮な野菜と肉料理が自慢の店なのだが、食事が喉を通るかどうか急に心配になった。
「お待たせしました。」
程なくして、静かに開いた扉からセレディアが出てきた。慌てなくていいと言ったが、やはり慌ててきたようだ。
ゼヴァンは呼吸を整えながら頬を赤くしているセレディアをジッと見つめた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ…今日は一段と綺麗だなと思って。」
「え!?」
「さぁ、行きましょうか。馬車を待たせてあります。」
「え、あ、は、はい!」
ゼヴァンはニコリと微笑み、セレディアの小さな肩と並んで歩いた。
*
「ご馳走様でした。とても美味しかったです。」
「喜んでもらえたのなら良かった。おっと」
店を出て食事のお礼を言った時だった。突然身体がフワリと浮き、気付けばゼヴァンの逞しい腕の中にすっぽりと収まり、大きな手が背中に触れている。セレディアは一瞬の出来事に何が起こったのか分からず息を止めていると、頭上から男の低い声が降りてきた。
「まったく、どこを見て歩いてるんだ。大丈夫ですか?」
「…。」
「セレディアさん?」
「え?あ!え!?」
男の呼びかけにハッとして、セレディアは咄嗟に離れて周囲に目を向けた。幸い、自分達を見ている人はいないようだ。しかしその中に大きな荷台を引いている男の背中が目に入り、あれがぶつかりそうになったのかとすぐに察した。
「どこかぶつかりましたか?」
「いいいいいえ、大丈夫です!ゼヴァン様のおかげで無事です!」
「良かった。そうだ、この後まだお時間はありますか?」
「はい。」
「この近くに湖があったでしょう?あの湖沿いには花がたくさん咲いていて散策できるようになっているんです。行ってみませんか?」
「まぁ!」
思ってもみなかったゼヴァンからの誘いに、セレディアは目を輝かせた。店から見えていた湖は陽の光を反射してキラキラと輝き、とても美しかったのだ。それを間近に見ながら花の香りを楽しめるなど、断る理由が無かった。
「良いですね!行きたいです!」
「!」
「!」
----やだ、子供みたいにはしゃいじゃった!
セレディアはサッと視線をそらせて赤くなってばかりの頬を手で覆った。面と向かって綺麗だと言われてから、どうも調子が狂ってしまう。
馬車に乗り込んでから今までまともに会話もできず、せっかくの食事も味が分からなかった。申し訳ないなと思えば思う程焦ってしまい、挙句の果てのみっともない態度。呆気に取られるゼヴァンからの視線が恥ずかしくて、とても言葉を続ける事ができなかった。
----ううぅ、恥ずかしい…。やっぱり帰ろうかしら…。
今までは、たとえ相手が男性でもこんなに緊張する事はなかった。それなのにどうしてここまで上手く話せないのかが分からない。セレディアは小さく息をつき、意を決してゼヴァンを見上げた。
が、男の顔はすでに横に向けられ、肩が小刻みに震えていた。何がそんなに可笑しいのだろう。
「あの…?」
「ククク…いえ、兵舎でお会いした時はとても落ち着いた方だと思っていましたが、可愛いらしい一面もあったんだなと思って…」
「え!?」
「ハハハ、失礼しました。では行きましょうか。」
「え?でも…あの…」
「はい?」
「その…いえ、何でもありません。」
よく分からないが、気分を害してないのならそれでいい。
セレディアは『どうぞ』と差し出された腕にそっとつかまり、顔を少し背けて歩いた。
*
遊歩道へ続く階段を降りて、二人は花の香りに包まれた細い道をゆっくりと歩いた。水の音が聞こえてきそうな静かな空間にいると、鳥達の囀りも軽やかな音楽のように感じる。
職業柄、ゼヴァンは周囲に危険が無いかを警戒しつつ、花に顔を近付けるセレディアの横顔を眺めた。
「はぁ、とっても良い香りですね。素敵な場所に連れてきて下さってありがとうございます。」
「気に入られたようで良かった。私で良ければいつでもお連れしますよ。」
「フフ、ありがとうございます。」
----あぁ、やはり綺麗だ。
今日はデートだけのつもりだったが、このまま何も進展しないのはあまりに惜しい。せめて次のデートの約束だけでもしておきたいと思った時、ずっと気にかけていた背後の気配が動いて咄嗟に身構えた。
予想通り三人いる。全員が外套のフードを深く被り、顔を隠している。
というか、なぜわざわざ今日の今なんだ。他の日でもいいものを。
「誰だ。」
「…炎纏の獅子…ゼヴァン・アッカートだな。」
「それがどうした。」
ゼヴァンはセレディアを背中に隠し、剣の柄を掴んで男達を睨みつけた。それだけですでに一人が怯んでいる。その男に目をつけ、セレディアを隠しながら男のいる方にゆっくりと足を滑らせた。案の定、男は愚かにも後ろに下がり無意識に道を開けた。
「俺に何か用か?」
ゼヴァンは足を止め、唯一声を発した男に声をかけた。
「…。」
----ま、そうなるよな。
男はその質問に答える事なく剣を抜き、それに続いて二人が剣を抜いた。それと同時に背中から息を呑む音が聞こえてくる。ゼヴァンは前方を睨んだまま声を潜め、後ろで震えるセレディアに話しかけた。
「セレディアさん。」
「は、はい…」
「私が合図を送ったらすぐに走って逃げて下さい。いいですね?」
「でも…」
「何が聞こえても絶対に振り返ったり止まってはいけません。」
「…。」
「馬車に乗って、そのまま家に帰って鍵をかけて下さい。」
「でも、それじゃあゼヴァン様が…」
ズリ…
セレディアの声に隠れて、地を擦る小さな音が耳をかすめる。その瞬間ゼヴァンは剣を抜き、セレディアを後ろに押して腹の底から声を張り上げた。
「走れッ!!」
「あっ…!」
「いいからはやく行け!!邪魔したいのかぁッ!!」
「…ッ」
ついさっきまで穏やかで優しかった男の恐ろしい眼光がセレディアへと向けられる。セレディアはゼヴァンが放つ獣のような咆哮にビクッと身体を震わせ、踵を返して走りだした。
「囲め!お前は女を追え!」
「行かせるか…!」
最初に怯んでいた男がセレディアの後ろを追おうとした姿のまま血に染まり、地に沈む。こう思っては何だが、剣を磨いてきた甲斐があったというものだ。ゼヴァンは目の前に立つ二人の男を睨みつけ、静かに口を開いた。
「お前ら、生きて帰れると思うなよ。」
*
サワサワと木の葉の揺れる音が風に乗り、初夏の終わりを告げてくる。代わりに訪れた真夏の太陽が猛威を振るう空の下、兵士達は今日も朝から大量の汗を流しながら厳しい訓練に励んでいた。
「うおぉぉぉぉーーーーッ!!」
「うらぁぁあぁぁーーーッ!!」
男達の叫び声と、ぶつかり合う金属音。ゼヴァンは開けた窓の隙間から流れ込むそれらの音を聞きながら溜息をついた。肝心の涼しい風が一向に入らないなら開けている意味など無い。
----俺も身体を動かすか。
今日は朝から書類に目を通していたのだが、暑さと騒々しさでなかなか思うように捗らない。ならば、と気分転換に剣を振り回す事に決め、ゼヴァンは軽く腕を回してから訓練場へと向かった。
訓練場に足を踏み入れると、ちょうど打ち合いが始まったところだった。己の登場で場に緊張感が走るのが分かる。隅の方で上手くだらけていた兵士はピンと背筋を伸ばして剣を構え、声の小さかった者は喉がちぎれそうな程の大声を出していた。
その中から一人の若い兵士が真っ直ぐこちらにやって来た。数歩先で立ち止まり、ゼヴァンに向かって一礼し、開口一番にこう言った。
「隊長、お願いします!」
「エイジンか。お前から挑みに来るとはどういう風の吹き回しだ?」
「ぜひ、隊長に私の相手をして頂きたいのです!」
「ほぉ…」
周囲からザワザワとした空気が伝わってくる。皆の視線を一身に浴びたエイジンの瞳にはこれまでのような怯えの色は無く、ただ真っ直ぐにゼヴァンへと向けられていた。セレディアと同じ、若葉色の瞳を。
セレディアとデートをした日からすでに三週間が経っていた。その間、エイジンとも一度も会っていない。すれ違ってもいない。特に避けていたわけでは無いが、気が付けば会う事が無くなっていた。
「いいだろう。どこからでもかかって来い。」
「はい!」
エイジンは剣を構え、腰を落として地を蹴った。
「うおぉぉおぉぉーーッ!」
「…。」
ギィンッ! ガンッ! ガガンッ!
「だぁーーッ!!」
「…。」
ガガッ! ガガガンッ! ギンッ!
「なぜ打ってこないんですか!!」
「…。」
ガンッ! ガガンガンッ! ガガガガガッ!
「クッ…僕が弱いからですかッ!!」
「…。」
「こんな奴には!ハァッ!どうせ誰も守れやしないって思ってるんですかッ!!」
「…。」
「じゃあ隊長はどうなんですかッ!!」
「…。」
「誰が僕の姉ちゃんを守るんだぁぁあぁぁぁぁーーーッ!!」
「ッ!!」
ギィーーーンッ!!
「うわぁッ!!」
「しまっ…」
剣と共に弾け飛ぶエイジンの姿にハッとして、ゼヴァンは思いきり剣を振り上げる己の腕に目を見開いた。部下との訓練で、本気で剣を振る事など今まで一度も無かったのだ。それもエイジンのような新米相手には決してした事は無かった。そもそも新米を相手にした事自体、無いのだが。
ゼヴァンは倒れ込むエイジンの元へ駆け寄り、肩に手を置いた。
「エイジン、大丈夫か?」
「僕は大丈夫です。でも…姉ちゃんはずっと元気がありません。」
「…。」
「二人の間に何があったかは知りません。でも、あの日を境に姉ちゃんは塞ぎ込んでしまって…。」
エイジンは立ち上がり、剣を拾ってゼヴァンに向き直った。
「隊長、僕の事避けてましたよね。」
「いや。」
「特別な理由がない限り訓練場に来られていたのに、あの日以来来なくなったじゃないですか。僕がいるからですよね。」
「…。」
「申し訳ありません。隊長に向かってこんな口を…後でどんな罰でも受けます。でも…これだけは答えて下さい。」
「なんだ。」
「もう姉ちゃんの事、好きじゃないですか?」
「…。」
ザァッと風の吹く音が二人の間を通り抜け、ゼヴァンのマントをなびかせる。互いに無言のまま見つめ合い、先にエイジンが目を伏せて頭を下げた。
「分かりました。お時間を頂き、ありがとうございました。」
「…。」
「それでは失礼します。」
「待て。」
「はい。」
「彼女には怖い思いをさせてしまった。すまなかったと伝えてくれ。」
「それはご自分で伝えて下さい。姉ちゃんは待ってますよ。」
エイジンはニコッと微笑み、もう一度頭を下げて兵士の中に消えていった。
*
「いってらっしゃい。」
セレディアは父親と弟を送り出し、手早く後片付けと掃除を済ませて裏口に出た。近くの井戸から水を汲み上げ、汗をかきながらせっせと洗濯物を洗う。それらを物干しに干し終え、汚れた水を捨てに行ってからようやく腰を伸ばして深く息を吸った。
----さて、次は買い物に行かなくちゃ。
セレディアは洗濯桶を持って裏口から家の中に入り、鍵をかけた。布で汗を拭きながら買い物用のカゴを用意して、必要なものを頭の中で整理する。そしてほつれた髪を括り直そうとヒモに手を伸ばしたところで、扉をノックする音が聞こえたので手を止めた。
----誰かしら。
返事をする前に覗き穴から訪問者を確認する。
「ひゃっ!」
それはいつもと変わらない行動だったが、今回ばかりは見たと同時に上擦った声を上げてしまった。やはり調子が狂ってしまうようだ。訪問者はゼヴァン・アッカートだった。
「こんにちは。ゼヴァン・アッカートです。突然の訪問をお許し下さい。」
「え?え?あの」
「弟さんから、今日はお仕事はお休みだと聞きました。今の時間なら家にいるはずだと。」
----あの子ったら!いるけどこんな格好してるのよ!?出られないじゃない!
暑い中、腕をまくって掃除と洗濯をしていたおかげで髪はボサボサ、顔はドロドロだ、肌はベタベタだ。とてもじゃないが人様の前に出てもいい姿ではない。ましてやゼヴァンの前になど、一生分の勇気をかき集めても無理だった。
「少し話をする時間を頂けないでしょうか。」
「あの…今はちょっと…」
「今日じゃなくてもいいんです。セレディアさんのご都合の良い日で…今日はここで帰りますから、弟さんを通じてでいいので連絡して下さい。それじゃ…」
----え、もう行ってしまうの?
ジャリという音が扉の向こうから聞こえてくる。その音が少しずつ遠ざかっていく事に、不意に胸が冷える感覚がした。まるでこれが最後かのような、そんな『別れ』を思わせる音だ。
大丈夫。気のせいだ。突然の出来事に気が動転しているだけ。
しかしその突然の出来事が起こった事でゼヴァンが危険な目に遭ったのだ。
返事をするまでの間に、もしまた同じ事があったら。
気が付けば扉を開けて叫んでいた。
「あの!」
「え?」
「待って下さい!すぐに…あの、すぐに着替えてきます。ですから少しだけお待ち頂けませんか?」
「セレディアさん…。分かりました、ここで待ってます。」
セレディアはすぐに着替えて髪を括り直した。そして一つ深呼吸をして扉を開け、家から少し離れた場所で待つ男の元へ急いで歩み寄った。今さらだが、ゼヴァンは立っているだけで遠目でも目立つ。今も周囲から脅威の目で見られ、皆が避けるように少し距離をとって歩いていた。
「お待たせ致しました。」
「いえ。お忙しいところすみません。」
ゼヴァンは組んでいた腕を解き、セレディアに向き直った。
「先日は、怖い思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。」
「いえ…大丈夫でしたか?」
「はい。本当はすぐに謝りに来ないといけなかったのですが、その…情けない事に、あなたにどう話せばいいかと悩んでいる間にこんなに日にちが経ってしまいました。本当に、私のせいで申し訳ない。」
ゼヴァンは頭を下げた。その姿にセレディアは目を伏せ、首を横に振った。
「頭を上げて下さい。ゼヴァン様は何も悪い事をされてません。」
「いや、あなたを危険に巻き込んでしまった。私がもっと注意すべきでした。己の立場を考えなかった結果があれです。弁解の余地もありません。」
「…。」
セレディアは立場という言葉にピクリと反応してゼヴァンを見つめた。隊長という立場にあれば、普段から命を狙われる可能性も確率も高い。その為には相手は手段を選ばず、容赦なく弱点をついてくるはずだ。そして戦になれば敵が血眼になってその首を奪いにくるだろう。以前のように。
今目の前にいるのはそういう男だった。
「これ以上あなたに迷惑はかけませんのでご安心下さい。」
「え…?」
「今日はそれを伝えに来ました。それじゃ、私はこれで。」
ゼヴァンは僅かな間セレディアを見つめ、頭を下げて背を向けた。
----あ…
男のマントが風に煽られ、腰に下げた剣に絡んでいる。
セレディアは声をかけようとして、咄嗟にその言葉を飲み込んだ。
これ以上関われば、戦の度にこの背中を見送る事になる。そしてその度に胸が張り裂けそうになりながら、無事に帰ってくる事をひたすら祈る日々が続くのだ。そんな思いは弟エイジンだけで十分だった。
でもーーーーー。
「待って下さい!!」
口から飛び出した言葉よりも身体が先に動いていた。
こんな事は初めてだった。
自分にこんな大胆な部分があったなんて。
セレディアは男の背中にしがみつき、マントに顔を埋めた。
「…ッ!」
「待って…お願いです、待って下さい!」
「セレディアさ…」
「あの!そのままで!こちらに振り返らないで、そのまま聞いて下さい!」
「…分かりました。」
ゼヴァンは言われた通りにその場に立ち尽くし、背後から聞こえる速い呼吸音に耳を澄ませた。
「…迷惑だなんて思ってません。」
「…。」
「ゼヴァン様が仰りたい事はちゃんと理解しています。でも…私…私は…あなた様をお慕いしています。」
「ッ!」
「あなた様の側にいる事が危険であるのは百も承知です。あの日から今まで何度も何度も悩みました。でも…結局行き着く答えは同じでした…。」
「セレディアさん、それは…」
背中を掴む手が緩んだ感覚がして、ゼヴァンはゆっくりと振り返った。目線を下げればセレディアが顔を真っ赤にして涙を流している。その表情を見た瞬間、初めて見た時の胸の高鳴りが蘇った。もうこれ以上は止められなかった。
ゼヴァンはセレディアを抱き締め、腕に力を込めた。それに応えるように回された小さな手に愛しさが込み上げてくる。しばらく互いに抱き締め合い、そして呼吸を合わせるようにゆっくりと身体を離した。
「私もあなたが好きだ。でもだからこそ巻き込みたくなかった。」
「分かっています。でも私はあなた様の側にいる方が幸せです。」
「セレディアさん…うん?」
「え?…え、え?あ!?ひゃあぁ!」
----ここ、道のど真ん中だったわ!
ハッと周囲に目を向ければ、いつの間にか人だかりができている。
ここまでの全てのやり取りを見られていた事に全身の温度が急上昇し、セレディアは再び真っ赤になった顔を両手で覆い隠した。
「あぁぁ…」
「ククク…ちょっと失礼。」
「え?きゃあ!」
ゼヴァンはセレディアをヒョイと抱き上げた。思った通り、華奢で軽い。
腕の中で強張るセレディアに目を細め、耳元でポツリと呟いた。
「ほら、ちゃんと掴まって。このまま家まで送り届けますから。」
「あの、大丈夫です。自分で歩けますから…」
「俺がこうしたいんだよ。もう恋人同士なんだからいいだろう?セレディア。」
「え!?」
「俺の事もゼヴァンと呼んでくれ。敬語も要らない。普段の君のままに接してくれ。」
セレディアは目を見開き、ゼヴァンを見上げた。視線の先では悪戯が成功した少年のように嬉しそうに笑う男がこちらを見下ろしている。セレディアはしばらく呆気に取られ、そして思わず吹き出した。
こんな子供のような一面があったとは。
「フフフ…えぇ。ゼヴァン、でいいかしら?」
「あぁ、それでいい。…そうだ、まだもう少し一緒にいてもいいか?」
「え?でもお仕事中なんじゃあ…」
「今日は特に急ぎの用は無いんだ。だから…」
ゼヴァンはセレディアを抱き上げたまま扉を開けて中に入り、扉を閉めて鍵をかけた。
「君ともう少しこうしていたい。」
「え、あの…」
「すまない。性急なのは分かっているんだ。でも今まで生き急ぐ人生だったから僅かな時間も惜しいんだ。」
「…。」
「この気持ちを言葉と行為で伝えられる時に伝えておきたい。でも君が待ってほしいと言うのならそれ以上の事はしないと約束する。あぁ、それ以上というのはキ…」
ゼヴァンが言い終わる前に柔らかい感触が唇に触れ、同時に静寂が訪れた。スッと離れた小さな顔が横にそれ、頬と頬が触れている。ゼヴァンがそのまま動かないでいると、セレディアの小さく震えた声が熱を帯びて耳に触れた。
「嫌じゃありません…」
「…。」
「この奥に私の………ベッドがありま…きゃっ」
刹那、風のような速さで身体が動き、セレディアは咄嗟に男の首にしがみついた。その瞬間の激しさが嘘のように優しくベッドに下ろされる。目を瞑り、バサッと服が落ちる音を聞きながら静かになるのを待った。
「セレディア…」
耳をかすめる男の低い声が、ゾクリと身体を震わせる。
セレディアは薄く目を開け、再びゆっくりと目を閉じた。
*
木の葉が色付く頃。今日も朝から下っ端兵士達は厳しい訓練に励み、臭い雑用をこなしていた。
「エイジン、昼だ。飯食いに行くぞ。」
「あれ、もうそんな時間ですか?すみません、ここを片付けたらすぐに行きますので、先に召し上がっていて下さい。」
「いや、待ってるからさっさと終わらせて来い。」
「はい、ありがとうございます。」
こんなやり取りもすでに日常風景になったのか、今では誰も気にする事が無くなった。むしろ鬼隊長ゼヴァン・アッカートの相手はエイジンに任せておけば大体丸く収まる、という暗黙の了解が広がりつつある。
そんな中、今日も二人は中庭のベンチに並んで座り、セレディアが作った弁当を食べていた。
「美味い。」
「はい。」
「なぁ、エイジン。」
「はい。」
「俺がお前の義兄になってもいいか?」
「いいですよ。大歓迎です。」
「そうか、分かった。それとな、」
「はい。」
「お前、兵士辞めろ。これまでお前の事を見てきたが、どう考えても兵士には向いてない。戦になったら戦地までの移動中に死ぬぞ。」
エイジンとて向いていない事は分かっていた。しかし側から見て、戦が始まってもない状況で死ぬ程酷いものだったのかと思うと、ショックを通り越して笑いが込み上げてきた。
「フフフ、ハッキリ言いますね。」
「事実だからな。」
「えぇ。実は僕、ずっと辞めようか悩んでたんです。でも、隊長が姉ちゃんの恋人になって…僕の義兄さんになってくれると聞いて、やっと決心しました。」
「…。そうか。」
「隊長。」
「うん?」
エイジンは食事の手を止め、身体をゼヴァンに向けてペコリと頭を下げた。
「姉ちゃんの事、よろしくお願いします。」
「ん。ほら、はやく食え。時間が無いぞ。」
「はい!」
ゼヴァンの大きな手がエイジンの頭をグシャグシャとかき回す。
エイジンはヘヘッと笑って返し、膝の上の弁当に目を細めた。