婚約者と、憧れのベーカリーに来ました。
「わあ。色々なパンがたくさん!」
学園の校舎内にあるベーカリーで、私は思わず感嘆の声をあげた。
街に行けば、ベーカリーをはじめ、たくさんの商店があることは知識として知ってはいる。
けれどそれは言葉通り知っているだけで、私は実際に街の商店で買い物をしたことが無い。
どころか、私は街に行ったことがない。
何か必要な物があれば商人が邸に商品を持って来て、その中から選ぶ。
それが私のお買い物だった。
なので今、学園の校舎内とはいえ生まれて初めて自分で商店に入って商品を見ているという状況が楽しくて仕方ない。
「そんなに喜んでくれるなら、もっと早く連れて来ればよかったな」
一緒に来てくれたパトリックさまが、隣で優しく笑う。
「パトリックさまは、慣れていらっしゃるのですね」
私のように浮足立つこともない、物慣れた様子に私は自分の行動が恥ずかしくなった。
「俺は、街に視察にも行くからな」
そうか、視察か、と。
頷きながら、私は自身の気持ちを落ち着けるように深く息を吸う。
そんな私を見て、パトリックさまがふっと笑った。
「莫迦だな。陛下の御前でもあるまいし、そんな無理に落ち着かなくていいじゃないか。さっきみたいに、楽しそうに一緒に買い物してくれた方が俺はずっと嬉しい。ほら、笑って」
そう言って砕けた笑みを楽し気に浮かべたパトリックさまの目が悪戯っぽく光った、と思うや否や。
「いひゃいれう!」
私の頬は、パトリックさまの両手の指によって左右に思い切り引き伸ばされていた。
昼休み、たくさんの生徒で賑わうベーカリー。
そのなかで突如現れた奇態生物に、たくさんの目が驚きに見開かれ私達を見ている。
『わあ、ひとの顔ってあんなに伸びるんだ』
『あれぞ、奇面』
って、声が聞こえるようです!
パトリックさま!
それを自覚した途端、私は発火したような熱を全身に感じた。
「ローズマリー、可愛い」
それなのに間近で聞こえたのは、そんなうっとりとしたパトリックさまの声。
そんなはずないでしょう!
内心全力で叫んだ私の、恨み込めた視線も何のその。
物理的にも精神的にも真っ赤になったに違いない私の頬を優しく撫でたパトリックさまは、何事も無かったかのように私の手を引き、楽し気に店内を進む。
「このベーカリー、校舎内にあるのにこの広さだし、種類も充実しているんだ。お茶と一緒に楽しめるパイなんかもあるし」
今の奇行をきれいさっぱり忘れ去ったような、爽やか笑顔のパトリックさまがそう言って私にベーカリーを案内してくださる。
「ランチボックスとかもあるよ。今日は何にしようか。ローズマリーは何が好き?」
けれど、未だ周りの視線が気になる私は、何を呑気な、と呟きかけ。
「オープンサンド!」
思い出した事柄にすべての状況を忘れ去り叫んだ。
「オープンサンド?」
突然叫んだ私を訝しく見て、パトリックさまが首を傾げる。
「はい、オープンサンドです!王妃さまが、今でも手ずから陛下に作られるそれを、最初に作られたのは学園時代なのだと伺いました」
今の国王ご夫妻のご出身もこの学園。
今も仲睦まじいおふたりが、この学園のどこかで一緒にオープンサンドを召し上がったのだと伺って、私も食べてみたいと思っていた。
「そう、なのか」
母さまと一緒に招かれた王妃さま主催のお茶会で、王妃さまご自身から伺ったことなのだけれど、パトリックさまはご存じなかったご様子で。
「ああ、と。あの、わたくしの母は幼少の頃から王妃さまと親しくさせていただいているとかで、王妃さまはわたくしのことも気に掛けてくださいます、ので」
パトリックさまが、王妃さまのお話をご存じない。
その理由に思い当たった私は、気まずさにパトリックさまから目を逸らした。
今は平和なこの国で、王位継承を掛けて百年ほど前に起こった内乱。
そのとき勝利した第一王子派の筆頭だったのが、今の王妃陛下のご実家であるノース公爵家。
そして、敵方であった第二王子派の筆頭だったのが、パトリックさまのウェスト公爵家。
パトリックさまは、アーサーさま。
現第一王子の側近第一候補ということもあって、パトリックさまの立ち位置を王家よりに考えていた私だけれど、内乱時ウェスト公爵家は最後の最後まで降伏することなく徹底抗戦し、特にノース公爵家と激しく衝突した家として有名。
その遺恨のせいなのだろう。
王妃さまの私的なお茶会で、ウェスト公爵夫人の姿を見たことが無い。
「ローズマリー。安心して嫁いで来て大丈夫だからね」
迂闊なことを口にしてしまったと、楚々と後ずさろうとした私はパトリックさまの優しい腕に止められた。
「とつ?」
そして突然出た言葉に驚いてパトリックさまを見上げてしまう。
「そう。内乱時、君の家と俺の家は確かに敵同士だったかも知れないけれど、今は最強の友好関係だからね。何も心配はいらないよ」
にこにこと言われ、私はパトリックさまの偽りない温かさに心が凪ぐのを感じた。
「わたくし、家同士を結び付けられるよう精進します」
今も残る内乱のわだかまり。
それが希薄な家に育ったため、余り状況に敏くは無いけれど、だからこそ出来ることもあるのではと、私は強く頷く。
「うん、期待しているよ。じゃあ、まずローズマリーが笑おうか」
そんなことを言いながら、再びパトリックさまがそれはそれは楽しそうな、それはもういい笑顔で私の頬目掛けて手を伸ばす。
「二度目は簡単にいきません!」
そのパトリックさまの両手を握って、私は満面の笑みで勝利を宣言した。
「ローズマリー。大好きだよ」
けれど揚々と言った私は、思ったよりもずっと深いパトリックさまの目に見つめられ、心臓がとくんとなるのを感じる。
「パトリックさま」
「ええと、オープンサンドだっけ。王妃陛下のその話は初めて聞いたけれど、このベーカリーは陛下が王妃陛下のために造らせたものだということなら知っているよ」
切り替えたように、楽しそうに言ったパトリックさまが、その長身を生かして店内を見渡す。
「このベーカリーを、ですか?」
「ああ。陛下が在学中に、当時婚約者だった王妃陛下のために造らせたそうだ。凄いよね・・・あ、あれかな」
そして、目的の物を見つけたらしいパトリックさまは、私の手を引いてそこまで連れて行ってくれた。
「なんというか、凄いです。こんなにたくさんのオープンサンドセット」
「うん。並々ならぬ思い入れを感じるね」
ふたりして、思わずしみじみ呟き、まじまじ見つめてしまった先にあったのは、様々な具材とパンがセットになっているたくさんの種類のオープンサンドセット。
マスタードやバターも充実していて、その売り場だけ他より明らかに力が入っている。
「両陛下の愛、なんですねきっと」
陛下が王妃さまの為の造ったという、校舎内とは思えない広さを誇るベーカリー。
そして、その中央に威風堂々並んだオープンサンドセット。
それらに、ちょっとだけ私の目が遠くなったのは秘密、と思ったけれど。
「ふふ。ローズマリーは正直だね」
そう言って笑ったパトリックさまには、ばれてしまっていたらしい。
まあ。
パトリックさまだから、いい、かな。