抗う人々 ~ここのつめ~
「下がって、カシウス様っ!」
半瞬遅れて妙な禍々しい空気に気づいたカシウスの視界を、限界まで眼を見開いて絶叫するラウールが過った。
.....と、思った瞬間、不可思議な靄に巻かれ、二人の姿が消える。
いや、実際には消えていない。
闇の濁流に抱かれ、二人は意識を消失させたのだ。
憮然と佇むカシウスとラウール。
まるで蝋人形のように微動だにせず、彼らは禍の悪夢に囚われた。
そこに誰も存在せぬかのごとく希薄な空気。
それを皮切りに、ファビアの覚醒させた禍が、土石流のように世界へ広がった。
ねっとり絡み付く濃厚な魔力。
それは、光の結界すら打ち壊して暴れまわった。
「なんだ、これはっ? 気持ち悪いっ!!」
不気味に蠢く青黒い泥濘。意思を持つかのように人々を呑み込む濃霧の正体は数えきれないほど重なった青黒い蝶。
それは人々に取り憑き、その人の心に巣食うおぞましい悪夢を呼び覚ましていく。
人間誰しも、思い出したくない記憶や後悔があるものだ。
禍は、それを最も惨たらしい悪夢へと変貌させた。
『やめて、父様っ!』
『父などと呼ぶな、穢らわしいっ!』
これまで優しく頼もしかった父伯爵の豹変。
自分が、父の実の子ではなく、母親が結婚前に付き合っていた男性の子供と発覚したラウールは一転して伯爵家の汚点とされた。
結婚前だったとはいえ妻の不貞を知り、父伯爵は朝から晩までラウール母子を悪し様に罵る。
時には暴力まで.......
......暴力? そうだっただろうか?
己の記憶する過去より凄まじい冷遇。それを見たラウールは腹の底から絶叫する。
『やめて、父様っ! やめてーっ!!』
......こんなの嘘だ、僕は母上と。......母上? 誰だ、それは? いや、それより母様を守らないと。
しだいに混濁するラウールの深層心理。夢か現か。もはや何も分からない。
怒鳴られ、殴られ、ラウールを抱き締めて守る母親は、みるみる満身創痍になっていく。
『離して、母様っ、僕が父様を止めるからっ』
必死にもがいて暴れるラウールを、さらに懐深く抱き締めて、彼の母親は力なく笑った。
『ごめんね...... お母様が馬鹿だったばかりに。貴方はお母様が守るから......』
そうだ。母が愚かだった。しかし、その報いは十分に受けたはず。
父は、まだ若い。後妻の来てだって腐るほどあるだろう。
こんな仕打ち、しなくても良いではないか。二人を叩き出して、忘れてしまえば良いではないか。
なのに父伯爵は母子を追い出さず、四六時中折檻して苦しめる。
......そうだったか? 父は......? 分からない。そうだったような気もするが。違ったような気も......?
ラウールは、禍の見せる夢に翻弄される。時折、妙な違和感を持つものの、目覚める気配はない。
実際、ラウールの母親の不貞が発覚した時、彼の父親は一時二人を罵りはしたものの、すぐに興味を失い、一時金を持たせて追い出した。
その記憶と、夢の見せる現実の境が曖昧で、ラウールはひどく混乱する。
だがそれは禍の見せる悪夢だ。悪辣極まりない禍は、想像を上間る残虐さで彼の記憶を塗り替えていく。
満身創痍なまま放置されて息も絶え絶えな母親の手を握り、涙するしかない幼い自分。
『お母様、しっかりして? ラウを見て?』
場合によっては現実となっただろう悪夢。どれか一つでも選択肢が違ったなら、ラウールは、このような未来を迎える可能性があった。
訪れた分岐で全て最悪を選び、禍は現実と変わらない悪夢をラウールに見せつける。
その夢の中で母親を失い、父親にも周囲を取り巻く環境にも、ラウールは絶望した。
そこから今度は、ラウール自身が伯爵家で冷遇され始め、彼は幼心に復讐を決意する。
......許さない。この外道に味方する全てをっ!
血を吐くかのように呟かれる呪詛。
声もなく現実のラウールの眼から涙が伝った。
ほたほた顎の曲線をなぞって滴り落ちる涙。それと同時に、噛み締めすぎた口の端にも一筋の赤い糸が伝う。
蝋人形のように動かないラウール。しかし、眼を射る鮮明な朱が、彼の心の葛藤を物語っていた。
それを冷めた視線で一瞥し、ファビアは小さい嘆息を漏らす。
「......今頃みんな、同じような悪夢に囚われているのでしょうね」
『人間、誰しも後ろめたいことや許しがたいことの一つや二つあろうしな』
禍に呑み込まれた人々の時が止まる。いや、世界が止まった。
街では暴徒のつけた焔が灰を舞い上がらせ、パチパチと爆ぜる火花の音しか聞こえない。
始まったばかりの禍は、一気に佳境を迎えた。抜け出すことの出来ない闇の泥濘。これは、本人が自ら造り出した最悪の夢によって精神を崩壊させる罠。
刃物も毒薬も何も要らず、簡単に人間を絶望の底に突き落とす。
......これまでと違って、静かな禍だな。勝手に朽ちるのを待つだけとは。
過去の禍は、人間達を阿鼻叫喚の坩堝に陥れた。人間の醜さをこれでもかと知らしめる方法ばかりだった。
それには聖女の死が必須である。起爆剤を使わずに禍を覚醒させたファビアは、そういった動乱と無縁な滅びを蔓延させた。
枯れ葉の舞う音ぐらいしか聞こえない静謐な中庭。し....ん、と静まり返ったそこには、厳かなほど重く澱む空気が漂っている。
......が、それで終わらせられないのが、天上界を名乗る精霊界で禍の発露を待ちわびていた光の精霊。
『聖女はどうしたっ? アレを無惨な屍にせねば、我等が下界に報復出来ないではないかっ!!』
闇の精霊の脳内に轟く光の精霊の雄叫び。
精霊王の遣わした聖女を殺した。その大義名分がないと、精霊達は下界に手が出せない。
罪と罰の天秤が吊り合わなくなるのだ。罪を冒していない人間達は裁けない。
......知ったことかよ。
見苦しく喚きたてる精霊達を黙殺し、闇の精霊は初めての静かな滅びに胸を撫で下ろした。
血を見ることもなく、おぞましい殺し合いを見ることもなく、ましてや無惨に乱暴され、死に至らしめられる聖女の断末魔に耳を塞ぐ必要も、それにより覚醒した禍の咆哮を聞くこともない。
......禍が、いつもこのようであれば。俺も苦しまずに済んだのかな。
ファビアと二人きりで、世界が終わるのを待つ闇の精霊。
しかし、彼等は油断していた。
闇の泥濘に囚われながら、正気を保っていた人間がいることに気づかなかったのだ。
......だから、なんだ?
非常に冷静な心持ちで、カシウスは悪夢を見る。
『侍女から聞いたぞ? そなた、私を騙したのだなっ!』
夢の中の王太子は、カシウスのもたらした情報が、婚約者のラリカを罠にはめるためだと知らされて激怒した。
カシウスの手駒だった侍女が裏切り、良心の呵責に耐えきれずに告白してしまったのだ。
その侍女は平民だったため、ラリカの父親である公爵の逆鱗に触れ、処刑される。
カシウスの目の前で侍女の首に斧が振り下ろされ、無惨に落ちた。
飛び散る血飛沫、侍女の顔に残る涙の泡沫。その全てが視認出来る位置に固定されながら、カシウスは無言だった。
こんな目に合ったら、普通は罪悪感や恐怖に打ちひしがれるはずである。
.....が、カシウスは普通でなかった。
彼が無言なのを驚愕とでも思ったのか、王太子は忌々しげに眼を細める。
『そなたのせいで...... 可哀想な侍女だよ』
......私の? せっかく逃亡資金まで渡してやったのに、おめおめと王都に舞い戻ってきて自白までした、この女の自業自得だろう?
王太子を謀った罪で、貴族牢に監禁されるカシウス。
そこからも色々起きた。
事態が事態であるゆえ、減免されたラリカが婚約破棄をつきつけてきたり、息子の仕出かした悪事を嘆き、カシウスの両親が廃嫡を伝えに来たり。
貴族として致命傷なことばかりで、普通なら懊悩煩悶するのだろうが、カシウスはどうでも良さげに寛いでいた。
目の前で斬首が行われようと、婚約破棄だの廃嫡だのされようと、カシウスには何の痛痒もない。
彼の心は、ある人物にだけ向いていたから。
.....婚約破棄か。これで、トリシアに求婚出来る。いや、廃嫡されたんだった。除籍もされるだろうか。そうなると、伯爵家に申し込み出来ないな。
そんなことをつらつら考えていたカシウスに、さるなる苦境が訪れた。
本人が危惧していたように、侯爵家はカシウスを除籍し、彼は平民になる。
立っているだけで服まで着せてもらえる暮らしの貴族にとって、平民落ちは投獄されるより恐ろしい罰だ。
気位ばかり高い元貴族は施されるのを良しとせず、生活力もないため、すぐ暮らしに行き詰まる。
そして貧困に喘ぎ、病を得るか暑さ寒さに倒れるか。いずれにしろ碌な結末を迎えない。
だが、カシウスは違った。
彼は人の施しに感謝し、少しでも糧を得ようと仕事に勤しむ。
下町の連中に嘲笑われても平気の平左。普通の貴族なら、あまりの侮辱に血管が切れそうなことをされても無関心。
......トリシアを迎えるためにも金子は必要だしな。御人好しや馬鹿な嫌がらせしてくる連中に食べ物を運ばせて、稼いだお金は貯めておこう。
彼のいう嫌がらせとは、パンを投げ捨てて踏みつけてり、美味しそうなスープに虫を入れるなど。
そんな砂まみれになったパンでも、パンはパンだ。スープだって、虫を取り出せば食べられる。
カシウスは、図太くしれっと、そう考えていた。
次元の違う鋼の神経。
常人だって、そんなことをされた食べ物を口に運びはしないだろう。
しかし、トリシアのことを思えば、どんなことにだってカシウスは耐えられる。
前代未聞な不屈の恋心。
誰もが凄まじい悪夢に七転八倒している中、一人飄々と悪夢を悪夢と思わないカシウスだった。




