抗う人々 ~やっつめ~
「ファビアーっ?!」
息を切らせて叫びながら、トリシアは疲労困憊でテラスの窓を開けた。
すると夜風が優しく彼女の髪を揺らして吹き抜けていく。
ふっと緊張を弛める心地好い風。夕闇深くなってきた外を眺めながら、トリシアは詰めていた肺の中の淀んだ空気を全て吐き出した。
「本当に、どこへ行ってしまったのかしら」
妹が王太子に連行されたと聞いたトリシアは、牢獄中心で探す。
そこに居ないのは確認したので、今度は客室エリアなど、外部の者がよく利用する場所を探索した。
だが、いくら探してもファビアの居た形跡はない。どこへ行ってしまったのだろうか。
お疲れ気味な目を軽く擦り、テラスへ出てきたトリシアは、下から聞こえる微かな喧騒に気がついた。
......王宮の人々はみんな避難したと思ったけど?
彼女が不思議そうな顔で中庭を覗き込むと、そこには見知った人々。
カシウスとラウール。そして、会いたいと願ってやまないファビアの姿がある。
「ファビ.....っ」
思わず声をあげようとしたトリシアに被さるよう、大きな声でカシウスがファビアを怒鳴った。
「君が禍だというのは分かっているんだっ! もう、これ以上の悪足掻きはよせっ!!」
「だから?」
感情的な男性と何の抑揚もない女性の声。トリシアは、あんな突き放すようなカシウスを見るのは初めてだった。
だが今は、そんなことを考えている場合でない。
目的の人物の声を耳にして、トリシアは、ばっとテラスから乗り出す。
眼下に広がるそこは中庭。
荒れ果てた森のような場所を背景に、睨み合うカシウスとファビアを見て、トリシアは妙な違和感を覚えた。
中庭は、まるで焦土のごとき有り様である。たぶん、元深い森だっただろう木々の葉は全て枯れ落ち、骨のように真っ白な幹や枝が幽鬼のごとく立ち並んでいるのだ。
その中心になる小さめの館。
そこもまた、遥けき時の流れに洗い流されたかように煤けた建物だった。
外壁はボロボロ、屋根も欠けていて、扉や窓は蝶番が弛み、傾いでいる。
......なんなの、これ? こんな場所あったかしら?
国王に招かれて、一年近く暮らした王宮。トリシアの記憶に、こんな場所は存在しない。
困惑する彼女を余所に、階下の二人は、しだいに険悪さを増していく。
「仮にも聖女の妹だ。これ以上、何もしないなら、投獄で済ませると王太子は仰っているぞ?」
「ふ.....っ。失敗したのね、あの男。誰もかれも役にたたないったら.......」
皮肉げに眉をしかめるファビアだが、その眼に浮かぶ一抹の安堵。
見る者が見れば分かる程度のことだが、長くファビアと共にあった闇の精霊は気がついた。
『.....お優しいことだ。どちらもね』
つ.....っと彼の視線が上がる。
それにつられ、ファビアとラウールの顔も上を見上げた。
そこには、驚愕の面持ちで下を凝視するトリシアの姿。場所は三階なのに、今にも手摺を飛び越えて降りてきそうなほど、その顔は焦燥感に溢れている。
「御姉様......」
「トリシア嬢」
「え?」
王宮に背を向けて立っていたカシウスは、慌てて二人の視線の先を追った。
そして見つける最愛。
「トリアっ! 君のことも探していたんだっ!」
喜色満面なカシウスを忌々しげに見やり、ファビアはトリシアに無関心を装う。
「王太子様もいい加減な男ね。御姉様と国外逃亡するっていうから手を貸してあげたのに」
唾棄するような呟き。
「そのようですね。御本人からうかがいました。まるで、何かに操られるかのように、己の欲望に呑み込まれたらしいですよ」
淡々と紡がれるラウールの説明。一瞬、カシウスの眼が陰惨に輝いたが、それは本当に一瞬だった。
トリシアの婚約者として思うところはある。だが、それは失敗し、王太子も深く後悔していた。
何より、今現在王都で起きている異常事態を考えれば、王太子の行動も可愛いものだと思えた。
闇に魅入られ、殺人狂と化した暴徒達。血で血を洗うような阿鼻叫喚を潜ってきた彼らだ。事の重大さは身に沁みていた。
個人の感傷は後回しだ。
......俺的には縊り殺してやりたいくらいだけど。......ラリカを片付けてもらった恩もあるしな。あれが無くば、こうしてトリアの婚約者になれることもなかった。......非常事態でもある。一度の過ちぐらい許すさ。
追憶の彼方に追いやっていた前の婚約者。カシウスの謀によって王都を逐われた彼女は、たしか修道院にいるはずだ。
今、一番安全な神殿関係の建物である。ある意味、幸運だった。
自嘲気味な笑みを深めるカシウスに気づかず、トリシアは異様な雰囲気の二人に向かって叫んだ。
「しばしお待ちくださいませ、そちらに参りますっ! ファビアっ! 禍は恐ろしいものなのよっ? 何が起きたのか知らないけど、そんなものにすがってはダメよっ!!」
......何が起きたのか知らないけど。......か。
......そうね、その通りだわ。御姉様は何も知らない。わたくしがカシウス様に恋していたこと以外は何も。
幼い嫉妬に身を焦がし、成長してからもあさましい横恋慕を捨てられない自分にファビアは反吐が出た。
どれだけ振り切ろうが、全身につきまとう劣等感。どろりとした汚泥が足に絡まって、一歩も前に進めないおぞましさ。
ファビアの初恋を横取りし、親の愛情も雅やかな才能も、聖女という地位すら手に入れたトリシアが憎い。
全てから愛され、社交界にその人ありと呼ばれる自慢の姉。
そう思う反面、腹の奥底で燻る憎悪や厭悪。
重く蟠り、とぐろを巻いて溜まっていく下劣な感情をファビアはもて余していた。
何をしても消えない業火。愛しているからこそ許せない稚拙な感情。
相手がトリシアでなくば、ここまで拗れることもなかっただろう。
好きとか嫌いとかの単純な関係なら、もっとマシだったに違いない。
ファビアがどれだけ疎ましく思おうが、トリシアは全身全霊で妹が好きだと伝えてくる。
暑苦しいくらい無条件で愛してくれる姉を嫌えるわけがない。
そして、嫌えない相手を。むしろ、愛してやまないトリシアを憎むファビアは、心も身体も千々になるほど苦しんだ。
終わらない葛藤。焼け焦げる良心。これではいけないと分かっているのに、止まらない憎悪と厭悪。
引き裂かれるような感情の嵐に身悶え、心の中でだけ絶叫していたファビア。
そんな彼女を救ってくれたのが、アルフォンソだった。
彼から惜しみなく与えられる純粋な好意。
その屈託ない優しさに触れ、ファビアの心は徐々に癒されていった。
血を流して膿み、淀んでいた彼女の心。
それを大切に大切に包んで抱き締めてくれたアルフォンソ。
長い横恋慕を引きずりつつも、ファビアは彼に絆されていく。
そして今の幸せを実感し、ようようカシウスやトリシアを静かに見つめられるようになった頃。
アルフォンソは殺された。
殺害した愚王は、聖女を手に入れんがために彼を殺したのだ。
何をしても、死に物狂いで足掻いても、世界は自分を不幸にする。幸福になることを許さない。なら.....
無言で王宮の中庭に佇む三人。
トリシアが来るのを待っているのだろう。カシウスは顔を綻ばせて、そわそわと中庭の出入り口を見つめている。
そんな彼の姿は、ファビアの奥底に眠る絶望を深めていった。
.....笑い話にもならないわね。カシウス様? 知っていて? わたくし、貴方に恋していたのですよ。
......こんな世界は滅んでしまえば良い。
アルフォンソを殺した愚王も、皆に愛される聖女も、それに味方するカシウスや両親や、ありとあらゆる全て。
神殿が指示したため、誰も闇に囚われた者を傷つけることはなかった。......が、傷とは目に見えるモノだけではない。
ファビアの見えない傷からダラダラと流れ、滴る青黒い膿み。
それは怨念にも近い禍々しさを伴って、周囲に拡散されていく。
彼女の変化を逸早く察知したのはラウールだった。
彼の全身を粟立たせる悪寒。ぶわっと毛穴が裏返りそうなほど凄まじい寒気がラウールの脳天から爪先まで突き抜けていく。
「な......っ?!」
狼狽えながら、慌ててラウールは辺りを見渡す。
だが、時既に遅し。
闇の精霊にして規格外と言わせしめたファビアは、起爆剤なしに禍の力を解放した。
「こんな世界...... 失くなってしまえば良いのよ」
......終わりが始まる。




