ティグリスの青年
■ ティグリスの青年
不思議にも感じるのだが、年老いるほどますます、古いふるさとの思い出を夢に見る。ずっと忘れていた、ある青年のことを今朝は夢に見た。
私が生まれた町には、容姿の整ったある青年がいて、男達は皆、妻よりも彼を愛していた。彼とすれ違うときには自然と、手足を収めて深く礼をした。
その時代には、明文化された法律というものはほとんどなかった。それぞれの町に存在した社会的な規則は、司祭と呼ばれる人々の間で、口頭によって伝承されていた。世の中の成り立ちは知られておらず、事実とは思われない言い伝えや、宗教と科学とが、まだ分離されていなかった。
今でいう学校というものは当時、存在せず、宗教的な知識と科学的な知識とは、まぜこぜで教えられていた。ごく一部の大人が行くものとして、大学はあったが、それは司祭を養成する施設だった。生活の中で起こる紛争の調停、今でいう裁判は、司祭達に任されていて、だから、学校や司祭には権力も伴っていた。司祭達や生徒達は、町の中心に設けられた広場に集まって腰をかけ、日の出から日暮れまで議論しつづけ、権力と正当性の源泉である弁舌の腕を磨いていた。
彼は、聡明な男だった。赤子の頃から自信に満ちたまなざしをしていたが、成長してからもそのまなざしに変わりはなかった。
彼は、町を行く司祭達や生徒達に、よく質問をした。そして驚かされるのは、いつも司祭達や生徒達のほうであった。才能はすぐに認められ、正式な生徒ではないのに、広場での議論に加わることを許されていた。十歳になる頃には、広場に通う最も賢いとされる司祭達から一目置かれていた。
しかし、彼は結局、学校に行かなかった。伝統的な教義の多くを取捨選択して認めなかった。学長は悲しんだが、彼は、自分が信じる自分の哲学を説きたいのです、といった弁明した。
彼には、彼が信じる彼の哲学が存在した。
彼の哲学の全体像を捉えるためには、それこそ、日の出から日暮れまでの議論を彼と繰り返す必要があるだろう。しかし彼が述べた言葉にはいくつかのキーワードもあって、「精神的な豊かさ」はその代表だった。
精神的な豊かさを大切にすることが、人間の社会が幸せなものであるために大切だと、彼はいつも言っていた。物質的な貧しさの中でこそ、精神的な豊かさを大切にすることの大切さを、彼はいつも言っていた。
大義を公言することなど、簡単なことかもしれない。しかし、彼の哲学には血肉が伴っていた。町という町の、寺院という寺院を巡って、彼が議論に負けたことは一度としてなかった。名だたる司祭達が、まず刮目して、次に涙を流した。
彼は、物質的に貧しい人が好きだった。
物質的に貧しい人を見かけると、彼はむしろ近づいて、物質的に豊かな人に対するよりも親切にした。
それを彼は、相手のためよりも自分のためだと言った。自分は万民の幸せために生きているが、それは自分が見返りによって報われるためや、期待される物質的な結果のためではなく、第一には、自分の精神的な豊かさを積み増すためだと言っていた。
彼は、自分の哲学を世の中に広めたいと言っていたが、物質的には貧しいが精神的には貧しくはない、目の前の一人一人を思いやって行動する毎日こそが、そのことの何よりの実践なのだと言っていた。
彼の哲学には、疑いもなく実践が伴っていた。それは、それを眺める第三者の心を揺すり、感動を与えた。私もまた、心打たれた一人だった。
私は、彼の友人だった。
というのも、彼と会うと、彼は友人を見るような目つきで私のことを見るのだった。友人を見るような目つきでいつも自分のことを見る人がいたら、その人は、自分にとっても友人でなくて何だろうか。
彼はきっと、私の物質的な貧しさが好きだった。
物質的な貧しさとは、客観的な財産についてのみ言うのではない。
例えば、自分の死や、家族の死。同様に、怪我や病。あるいは、心に負った傷。そこから来る生き辛さ。
幼い時代を戦場で過ごした私には、仲間達が死んでいく恐怖が深く内面化されていた。大人になり、どんなに平和な立場を得ても、今にでも殺される恐怖が、繰り返し心に蘇り、生きることは喜びよりも苦しみだった。その心の傷を自覚し、いかに回復に努めたとしても、生涯に渡って、その心の傷から逃れることはできなかった。それが、私という人間に課せられた弱さ、物質的な貧しさだった。
私が私の生き辛さを口にすると、彼は心から耳を傾け、私の悲しみに寄り添ってくれた。
でも君は聡明だと、彼は私をおだててくれた。君のように、精神的な豊かさを手にしうる人が、物質的な貧しさの中に置かれていたなら、それはむしろ恵まれているのだと僕は思う。そして、人の子に生まれて、精神的な豊かさに手を伸ばして届かない人はいないものだと、僕は信じている。
物質的に貧しい人々は、恵まれていると、彼は口癖のように言っていた。
僕は、すべての人を心の苦しみから救いたいのだと、彼は言っていた。
人類を救済することなどできるのかと、私は尋ねた。
もしできれば、万に一つの幸運だねと、彼はほほえんだ。
あなたの哲学の影響を後世に伝えることなどできるのかと、私は尋ねた。
もしできれば、万に一つの幸運だねと、彼はほほえんだ。
つまりは、それは、彼の生き方は結果によらず変わらないことを意味した。
つまりは、それは、彼は初めから彼を捧げるつもりなのだということを意味した。
その犠牲に意味はないのかもしれないけど、私はそれを尊いと感じた。彼という人間に、私もまた惚れ込んでいった。
彼は、その後、どうしているのか。
今ではとっくに、死んでしまっているのだろう。
あんなに愛していた友人のことを、ここ何年も思い出さず、ほぼ忘れかけていた。
先日、山で仕事をしているときに、私は意識を失った。
病院の医師や看護師が言うには、しばらくは病院で過ごすことになるが、その後の余生も長くはないという。
ノートとボールペンを手にして、私は、彼の言葉をここに書き残してみたいと思った。彼を思うとき、病院での退屈も、やがて来る死への恐怖も、私からは失われる。ふるさとで彼とすれ違う喜びを思い出すとき、私の心には、若い頃と変わらない笑顔がある。
ティグリス川のほとりに栄えた、ある小さな町で育った青年。
すべての命を友達だと信じた青年。男達は皆、妻よりも彼を愛していた。
しかし、といって、何から書こうか……。
■ 貧しさについて
物質的に貧しい人々は、むしろ恵まれている。
なぜなら、物質的な価値という偽りの価値に幻惑されることなく、精神的な価値という真の価値に気づきやすいからである。精神的な豊かさを手に入れやすいからである。
そして誰もが、物質的に貧しい。なぜなら、現実世界には制約が存在して、本能的に与えられた欲求のすべてを満たしつづけることは不可能だからである。なのに、物質的に恵まれた人々は、より貧しい人を蔑むことで偽りの豊かさを自覚する。そうして、物質的な価値に幻惑され、物質的な価値を奪われまい、さらには奪おうとして、精神的な貧しさの中に停滞してしまう。喜びを味わうことなく死んでいく。
それゆえ、物質的な財産によって他者を蔑める立場にない人々は、恵まれている。人の心というものは、自尊心をもたらすものがあれば必ずすがってしまうほど弱いものだからである。
■ 思いやりについて
自分の身体を愛するように、隣の人もまた愛すべきである。
そうして、他者を思いやることが、精神的な豊かさをもたらす。
人間の社会が、より幸せなものであるためには、人と人とが互いを大切にすることが大切だ。それによって、人と人とが奪い合う、社会が信用できない社会よりも、ずっと生産的な社会が築かれる。ただしその生産性は、物質的な価値で測るのではなく、精神的な幸福によって測られねばならない。
もしも、価値というものを物質的に測ったならば、社会に共有される物質的な価値の尺度、例えば金銭によって、人々は自分自身の幸福まで測るようになっていく。すると、人々は自分自身の精神的な幸福を見失う。物質的な形式的な幸福のために、精神的な本当の幸福を犠牲にするようになる。それが意味するところは、魂の破滅とも言うべきものだ。
■ 価値について
精神的な豊かさ以外のどんな価値を基準にして他者を蔑んだり、讃えたりしたとしても、社会の本質的な合理性に背いている。
つまり、物質的な価値によって他者を蔑んだり、自らを誇ったりすることは、主観的な認知のゆがみを形成して幻覚的な満足感を生む効果しかない。そしてその満足感は、他者の潜在的な幸福を不当に犠牲にするものであって、反社会的である。
もしも、他者を蔑んだり、讃えたり、あるいは自らを恥じたり、誇ったりして、なおかつ普遍的に合理的であるような価値の尺度があるとすれば、精神的な豊かさを置いて他にない。
すなわち、義によって蔑み、義によって讃え、義によって恥じ、義によって誇るべきであり、義によらず蔑み、義によらず讃え、義によらず恥じ、義によらず誇ることは違法である。
例えば、ある人が、自らの経済的な貧しさを恥じたり、自らの外見的な醜さを恥じたりするとき、利己的に見れば一見誰にも迷惑をかけていないようでも、その人は社会的な罪を犯している。その行為が、どんなにわずかであったとしても、同じだけわずかな罪を確かに犯していることになる。
人間という動物が人間という動物である以上、人間の社会には人間の社会としての変わらない性質があり、人々の幸福のためには、そこに普遍的な法律が存在すると言える。その法律の意義は、人が書く世俗的な法律に必然的に優越している。
■ 迷信について
超自然的な現象というものは、存在しない。
幽霊や神というものは、存在しない。
霊魂や死者の復活、死後の世界や天国や地獄は存在しない。
それらの伝承は、人の心が作り出した迷信である。
それらの伝承はしばしば、利己的な満足感のために作り出された幻想である。
一方で、少なくない伝承は、精神的な豊かさの価値を言うための有用な詭弁でもある。
しかし、精神的な豊かさの価値は実際に存在するし、それを説明するために迷信は不可欠ではまったくない。
迷信を捨てることよりは、精神的な豊かさのほうが優先されるべきである。しかし、精神的な豊かさを問題なく保てるならば、迷信は捨てるべきである。精神的な豊かさの価値は、迷信に頼らず理解されることが望ましい。
■ 価値観の発展について
他者を思いやることで、価値観は発展する。
他者や人々や社会の苦楽を自らの苦楽として感じることで、自分個人としての苦楽は相対化されていく。
それによって例えば、自分個人の死に対する恐怖とそれがもたらす苦しみから解放される。
利己的な、自己中心的な価値観は、必ず、物質的な実在に対する何らかの執着をもたらす。執着は喜怒哀楽をもたらすが、その根底には、失うことへの恐怖があり、恐怖に由来しているすべては苦しみである。
社会正義のために物事を判断し、日々を生きていくならば、変わらない価値観を意識した生き方を備えることになる。すると、振る舞いが確率的にもたらす結果に一喜一憂するのではなく、今を生きる生き様に満足を感じられるようになる。
すると、友情や愛は、それがもたらす結果のための手段ではなく、それ自体が最高の喜びへと変化していく。
そのような、価値観の発展によって、人の価値観は、物質的な豊かさを見る視点から、精神的な豊かさを見る視点へと変化していく。愛と正義こそが物質的な価値にずっとまさると感じられる、精神的な豊かさを備えるようになっていく。
どんなに物質的に貧しい立場に置かれても、精神的に豊かに生きようとすることには、非常な自由がある。物質的に誰よりも貧しい立場に落とされても、精神的に誰よりも豊かになることができる。そのことを知っていることが自信となり、自信は安心となり、安心は本質的な喜びとなる。
物質的な価値を奪い合うのではなく、パンを割り、必要な資源を分け合う喜びの中で、共に幸福に栄えることができる。
一つの言葉を交わさずとも、一つの言葉も知らずとも、指一本触れ合うことができずとも、愛し合うことはできる。愛し合うことができずとも、愛することはできる。愛することの普遍的な喜びを知ることは常に許されていて、だからすべての命は、初めから救われている。
精神的な豊かさは、そうして、至福をもたらす。
物質的な豊かさは、そのような至福をもたらしえない。例えば、麻薬によって一時的な喜びを得たとしても、自然な肉体のためには不自然な刺激を与えたのだから、必ず不都合な反動に見舞われることになる。なおかつ、また麻薬を手に入れて喜びを維持したいという物質的な執着に取りつかれることになる。一時的な喜びを得ることによって、かえって至福から離れていく。
■ 孤独について
もしも、正義が行われない土地や時代に置かれたならば、なおも正義を行う意味があるだろうか。
正義が行われない土地や時代に置かれるほど、つまり物質的な貧しさを強いられるほど、精神的な豊かさを思う意義は著しい。
物質的に貧しい人々ほど、恵まれている。普遍的な価値に近いからである。
最も物質的に貧しければ、凡人でも聖人のように生きられる。愛する喜びによってしか救われない人ほど、愛する喜びの価値に気づきやすいからである。
そうして、もしも普遍的な価値観に至ったならば、何万の親友や何万の恋人を得たことを意味する。義を楽しむ道を生きた人々や生きるだろう人々すべてと心を共有することになる。
それは、人生という問いに対する一つの普遍的な解であり、遥か過去にも、遥か未来にも、万人に永遠に開かれているゴールである。
■ ティグリスの青年
……彼の言葉を、記憶の淵から掘り起こす。
とっくに死んだだろう彼は、私の心の中で蘇って、あの懐かしい澄んだ笑顔で語りかけてくれる。
もしかして、今朝の夢の中にまで自分から会いにきてくれたんじゃないのか、そんなことまで思ってしまう。
迷信なんて信じないあなただけど、もしか私がまた忘れてしまったら、また夢に出てください。
その優しさの思い出で、繰り返し私を慰めてください。