第七話 病院の中庭の午後
私と弥生くん。
同じ学校、同じクラスの隣の席。
そして、彼が言っていた“暗闇の眼”のこと。
もう少し話を聞きたいのに、学校で彼が一人でいるところを捕まえることはできなかった。
弥生くんと昼休みに話をしてから、朝に挨拶をするくらいで何も特別な話はしない。
きっと弥生くんとしては、私の能力を確認して必要な事を説明したのだから、これ以上関わることはないと思っているのだろう。
まぁ、特殊なことだし、仕方ないのかなぁ。
私は弥生くんしか分からない。
でも、その弥生くんの能力は私と同じようであり、同じではなかったのだ。
もしかしたら、他人の死因やその瞬間を知るというのは、私が想像するより、ずっと……ずぅ~っと……辛いことなのかもしれない。
弥生くんが言っていた。
『君は見えるだけで他にないなら、気にしない方がいいよ。それで普通に暮らせるなら、わざわざ首を突っ込むことはしない方がいい』
――――と。
首を突っ込んだことはないけれど、ずっと気にして気に病んで。でも、結局は何もできないから諦めて。
人は必ず死ぬ。私が気にしたところで、それは命そのものの摂理であるのだ。
確かに、気にしないでいるように努力はできるかもしれない。
…………私の悩みなんか、小さいものだったのかな?
そんなことを沸々と考えながら、何も進展がないまま一週間近くが過ぎていったある日――――。
「いやー! まさか、あそこでスッ転んでこんなことになるとは思わなかったなー!! アッハッハッ!」
「……お兄ちゃん、笑いごとじゃないよ」
某大学病院の個別病室。
授業が終わった後、家から連絡があり、慌ててここへ向かった。
天井から物々しいフックとワイヤーで両足を固定され、ベッドで横になる一人の男性。今年20才になる大学生。
私の兄はどこをどう転んだのか、両足を複雑骨折して今日から入院となったのである。全治三ヶ月だそうだ。
「いや、参ったね。これ留年ものだよな……もう笑うしかねぇーわ! アハハハハ…………うわぁぁ~~ん!!」
「お兄ちゃん、気だけはしっかり持って」
どうやら、さっきからの笑いは自棄糞のものらしい。
普段は私と違って社交的で明るい兄なのだが、突然襲われた悲劇に感情が追い付いていないらしい。
こんなんで会社とか継げるのかなぁ……。
兄は将来、父の後を継ぐ予定だ。
何でもできる兄は大学に通う傍ら、会社の仕事も少しずつ覚えるために定期的に研修に行っている。今回の怪我はそこでやったらしい。
「…………そしたら、急に器具が倒れて」
「まさか、自分でリハビリ器具の体験をすることになるなんて……お兄ちゃん、体張ったねぇ。会社に入ったら誇っていいよ」
「嬉しくない……」
それはそうだ。
でも、自社のリハビリ器具を身をもって体験するなんて、この上ない幸運…………とは、やっぱりならないよね。
これ、見るだけでいたそうだし。
代償が大きすぎる。
「うぅ~、ことはちゃ~ん……お兄ちゃん辛いよぉ、痛いよぉ……うっうっうっ……」
「とりあえず、今は治すことだけに専念しよ? 大学の単位だって、通えるようになってから考えればいいんだし。ね?」
「うん、わかった……さっさと治す……頑張る」
話し言葉まで幼くなったように見えるが、まぁ、うちの兄は私の前ではこんなもの。怪我のせいで多少弱気になっている程度だ。
ちなみに、うちの兄は“兄バカ”と言われる人種だそうだ。ゆかりが兄のことをそう呼んでいる。
「もう……後でお手伝いの人と着替えとか持ってくるから、私は一度帰るよ? お父さんは出張中だから、来るのは明日の夕方になるみたい…………何か欲しいのある?」
「……今のところ、何も考えられない…………」
「とりあえず、少し落ち着こう? 必要なものがあったらメールして。なるべく学校の帰りに来るようにするから……ね?」
「うん……ぐす……」
可哀想なので、落ち着いたら好きな本やお菓子を差し入れて、お兄ちゃんお気に入りのゆかりも連れてきてあげようと思う。
意外にも、忙しい母親がすぐに駆け付けてくれて、私は今日はもう帰ってもいいと言われる。
母親が家に連絡して、必要な物を揃えてもらうことにした。手の空いている人がいるというので、その人に兄の荷物を持ってきてもらうことになったらしい。
ちょっと母親と二人きりにさせてあげよう。兄だって妹にこれ以上、弱いところは見せたくないもんね。
二人に手を振って病室を出た。
「はぁ……ちょっと疲れたな。お兄ちゃん、今日は眠れるかなぁ……」
夕方前の病院の通路は見舞いの人が多く見掛ける。今日は金曜日だから尚更なのだろう。
あ、ここの病院の中庭は広くて良いなぁ。
ふと、窓から見えた庭の景色に目を奪われた。
兄の一大事に自分も落ち着かなかったから、ちょっとだけ散歩していこうという気持ちがでてきたのだ。
中庭は路もキレイにタイルが敷かれ、公園の遊歩道のように気持ち良い。その辺のベンチでは比較的元気な患者さんと、その家族が座っておしゃべりを楽しんでいる。
ここ、お花も多いねぇ。お兄ちゃんが少し良くなったら、車椅子に乗せて連れてきてあげようかな。
庭に出るくらいの人なら、“黒い靄”を背負っている人は意外にいないものだ。
でも、ひとりくらいはいるはず。
ここは病院。そういう場所……。
そう覚悟して見ていれば、例え黒い靄を付けた人を見ても、私の構えた心は踏ん張ってくれる。
最期を病院で静かに過ごす方も多いのだ。
急な死別ではない。
色付きのタイル通りに歩いていくと、目の前に大きな桜の木が見えた。しかし、桜と言っても花のシーズンは当に過ぎて、青々とした初夏の葉が生い茂っている。
「…………え?」
思わず声が漏れた。
木の下で年配の女性が車椅子に座って、静かに本を読んでいる。
彼女の背後には大きな黒い…………“人型”が立っていた。
“黒い靄の人型”
初めて見た。
アレって人の形にもなるの?
偶々、そういう形に見えている訳ではない。ちゃんと人型をしているのだ。真っ黒で顔は無いけれど、ハッキリと首や関節を曲げて、おばあさんの車椅子に寄り掛かるように立っている。
何だろう……怖く、ない?
まるで車椅子を優しく支えているように見えて、私はその場面に釘付けになった。
「…………」
パサッ…………
おばあさんの膝から、キレイな鳥の子色の膝掛けが滑り落ちる。本人は気付いていないようだ。
車椅子に座っているので、地面に落ちた布を取ろうとしても到底無理だろう。
黒い靄は取り敢えず見ないフリをして…………
「落ちましたよ」
「はい?」
おばあさんは顔を上げて、近寄る私を見付ける。
私はすぐに駆け寄って拾い上げ、埃を払って広げて膝に被せた。
「あらあら、ありがとうね。本に夢中になっていて気付かなかったわ」
「いいえ……」
ニッコリと可愛らしい笑顔。
どことなく品のある、優しそうなおばあさん。
「あら? あなたのその制服……」
「……?」
おばあさんは私のブレザーの端を持ってニコニコと眺めている。そして、学校の名前を言ってきた。
「あ、はい。私はその高校です。今年入学して……」
「そう、確か……灰色の制服は『医科』のクラスだったわね。うちの孫も今年、そこへ入ったのよ」
「へぇ……そうなんですか?」
うちの学校は『普通科』と『医科』で制服の色が違う。しかも『医科』はクラスが各学年でひとつしかないので、このおばあさんのお孫さんとやらは、私のクラスメートだということになる。
誰だろう? こんな穏やかなおばあさんなら、お孫さんも大人しい子かも…………
その時、
「おばあちゃん、遅くなってゴメンね!」
「ん?」
花壇の曲がり角から、明るい声が飛び込んできた。
「おばあちゃんの好きな紅茶、売店に無くて自販機まで…………」
「………………えっ!?」
私は一瞬、その人物の笑顔に衝撃を受ける。
目の前の声の主は私を見た途端、分かりやすいくらい固まった。
「あぁ、ありがとう、誠一。ん、あらあら? 二人とも知り合い? ウフフ……」
おばあさんは『知り合い』ということを確信したように、悪戯っぽい笑顔を私たちに向けた。
「弥生くん……?」
「か……柏木さん、何でここに…………」
柔らかい笑顔も、驚いてひきつった顔も……よく知っている弥生くんだ。
私はこの日、初めて彼の感情を見た気がした。