第十六話 『眼』宵闇の光
集中治療室に行く前に明乃さんがいた個室。
カギも特に掛けられていない扉を静かに引く。
白いレースのカーテンの向こう、夕方の空の色が窓を通して部屋を照らしている。
「……………………いた」
ベッドの頭の方、壁際に『黒いヒト』がゆらゆらと立っていた。
ううん、ゆらゆらと揺れているのは『ヒト』に纏わり付いた『黒い靄』だ。
「柏木……? ここで何を?」
「うん。弥生くんはあの人型の黒い靄は見える?」
「いや、気配はするけど…………靄自体が見えない」
やはり、弥生くんは人の側についている時の黒い靄なら見えるけど、明乃さんの近くにいない黒い靄は見えない。
「あそこに、明乃さんといつも一緒にいたヒトがいるの。今は全身真っ黒だけどね」
「それが消えれば、おばあちゃんは助かる……?」
結果的にはそうだと言える。
「消すのは黒いところだけね」
「……?」
私は持ってきた『ハルジオン』の花束を、窓辺に置いてある花瓶へ静かに生けた。一瞬、弥生くんの顔が強張ったけど、彼は何も言わずその場に留まっている。
「弥生くん……?」
「平気…………」
下を向く彼は少しだけ震えていた。そのまま恐々と私へ言葉を投げ掛けてくる。
「……この花を飾ったら…………おばあちゃんの死の条件が、揃ってしまう……」
――――――そう。
弥生くんは二年もの間、今際の際の場面から『花』を避けて明乃さんの死を回避していた。
もちろん、今まではそれが『正解』だった。
しかし、状況は変わった。
「大丈夫。その為に私がいるの」
「え…………」
「たぶん“黒いヒト”はずっと、私みたいな人間を待っていたんだと思う」
きっと初めて明乃さんに会った時に、黒いヒトは私が自分のことを視える人間だと気付いたのかもしれない。
「ごめんなさい……私がすぐに気付いてあげられれば良かった。そうすれば、貴方はこんな騙し討ちみたいなことを弥生くんにせずに済んだのに…………」
黒いヒトに向かって語り掛けると、反応しているのか小刻みに揺れた。
横では弥生くんが驚いた顔で私を見つめている。
「騙し討ち……?」
「そう……本当はね、弥生くんが見えていた“花”は『ハルジオン』じゃなくて『シオン』のままで正解だったはずなの。だって、弥生くんに見えていたのは『白い花』じゃなかったでしょう?」
弥生くんに見せてもらった花の画像は『薄い紫』。
花を完全に警戒していた彼が、色に拘らないとは思えなかった。きっと、視えていたのも『薄い紫』の『シオン』だったと思った。
「確かに……『白い花』じゃなかった……」
これで確信する。
黒いヒトの前に進み、顔を見上げる。
「……貴方は私を見付けたから、同種の『ハルジオン』で行動を起こしたんですね?」
頭の部分と思われる所が上下に動く。
それと同時に、黒いヒトの輪郭がぼやけて“靄”が『ハルジオン』へ吸い寄せられるように移動していった。
「…………あ……」
黒い靄が完全に花へ移った後、その場には白衣を着た人物が立っている。
白衣を着て黒縁の眼鏡を掛けた、五十代くらいの線の細い男性。確かに病院の先生と間違えてもおかしくないような雰囲気だ。
お母さんが見たのはこの人だ。
母親は少し霊感のようなものがある。
だけど、黒い靄なんかは見えない。だから靄の向こうのこの人が見えたのかもしれない。
きっと、私や弥生くんが視え過ぎるだけなんだ。
私が焦点を変えたことでやっと視えた。
私は息を深く吸って心の準備を始める。
「……『花』は私が棄ててきます。どうか、貴方は明乃さんを助けてください」
再び頭が上下にゆっくりと動く。
こちらを真っ直ぐ見つめる男性の目は優しい。
白衣の男性は部屋の扉の方へ、滑るように進んでスゥッと消えた。
私はそれを見届け、今度は真っ黒な塊と化した花束を花瓶から引き抜く。ぬるりとした気持ち悪さが手に伝わる。
花束を棄てに行くために廊下へ出ると、弥生くんが不安そうな表情で一緒に付いてきた。
「…………柏木、一体……何が……」
弥生くんはあの男性が見えないから、状況が分からなかったのだ。
「大丈夫、花を置きに行こう……」
「分かった……」
細かい事はよく分からない。
推測されるのはこの後。
中庭に着いて、真っ黒な花束をあの木の根本へ置いた。
花束はみるみる萎んで枯れていく。
――――――まるで、命を吸い取っているみたい。
「これ……」
「弥生くん、下がって……」
花の命を吸い取った後、黒い靄が向かうのは…………
鎌首をもたげた蛇のように、黒い靄がこちらを『見て』いる。
そしてそのまま、こちらに向かって大きく広がった。
「…………っ!!」
思わず目を閉じ掛けた時、ザァアアア……と葉擦れの音がして急な風が吹く。
あの時と同じ。黒い靄が掻き消される。
私は何もしていない。だから、勝手に消えていったのだ。
「……終わった。黒い靄、もう無いよ」
「………………うん」
弥生くんも気配だけは感じるみたい。
「何で花を棄てるのが此処なのかは、全然分からないけど……」
昨日は夢中で走ってきた。
まるで導かれるように。
「僕は……何か分かるかも。おばあちゃん、よく散歩でここに来ていたから……」
「…………そう、なんだ…………」
もしかしたら、ここへ来れば黒い靄が和らぐのをあの人が知っていたのかもしれない。あの人なら、明乃さんを無意識に引っ張ることもできるだろう。
……本当のパワースポットというのは、神社仏閣だけじゃないということなのかも。
この木はここでずっと命を見てきたのだから。
思わず木に向かって、手を合わせてしまった。
そして、二人で少し黙り込んでいたけど、気付けば外は真っ暗になっていた。
戻らないと……
「明乃さん……大丈夫かな? 戻ろ…………」
「……………………」
見ると、弥生くんは唇を噛んで下を向いている。
「弥生くん……?」
「もし……何もなかったら…………」
「――――――行こう!」
「…………えっ!?」
がしっ!! と、弥生くんの手を掴んで走り出す。
「か……柏木っ!?」
「見届けないと!! 明乃さんは絶対あの人が助けるから!!」
弥生くんを引っ張って、私は明乃さんのいる集中治療室へ急いだ。
私と弥生くんは息を切らして部屋の前で立ち尽くす。
集中治療室のガラス越しの光景は、先ほどと変わらない。
…………何で、あの人は……?
ベッドに眠る明乃さんの顔を見ながら、私は不安と焦りが募っていく。その時――――
「あ…………!!」
声をあげたのは弥生くんだった。
明乃さんのベッドの足元から、半分透けて見える白衣の男性が枕元へ近付く。
「…………何……あの人……?」
「弥生くん、視えるの?」
「視える……」
何故か視えている。でも、その方が好都合だと思う。
「「……………………」」
私も弥生くんも黙って彼を見守る。
男性はチラリと私たちの方を見て頷くと、明乃さんの額にそっと手を添えた。
ボゥ……と男性の手から全身、明乃さんの周りがぼんやりと白く光っていく。
その途端、明乃さんに纏わり付いた黒い靄が上へ大きく広がり…………
「――――――消えた……」
「…………うん」
残ったのは薄くなっていく白い光。
そして、明乃さんを優しく見詰める白衣の男性。
男性がこちらに顔を上げた。
『……………………』
声は聞こえないが“ありがとう”と言われているのが解る。
そのまま男性は深々と頭を下げて、白い光と共に消えていった。
「「………………」」
私たちはその場から動けずに立ち尽くす。
しばらくして、ベッドの側にいた弥生くんのお母さんが立ち上がり、明乃さんに何かを呼び掛けている。
明乃さんの頭が動いて、瞳がスッと開いた。
ナースコールで呼ばれた医者や看護師が部屋へ入り、明乃さんの様子を確認しているが、そこには……笑顔が見える。
きっと、もう大丈夫だ。
「……おばあちゃん……!」
「良かった……」
私も弥生くんもそろって安堵のため息をついた。
「明乃さん、助かったんだね……」
「うん。あのさ……柏木?」
「え? 何?」
嬉しくなって弥生くんの方を見ると、何故か気まずそうにこちらを向く。顔が少し赤い。
「そろそろ……その、これ…………」
「え?」
「手…………放して、欲しい」
「…………手? え、あ!! ご、ごめんっ!!」
相当強く握っていたせいで、弥生くんの手には私の手形がしっかりと付いている。
それから十数分。看護師さんに声を掛けられるまで、二人で黙って固まっていた。
明乃さんの意識も戻り、今夜は弥生くんのご両親が交代でついているらしいので、関係者ではない私はこっそり帰ることにした。
しかし、外は真っ暗だったので家に連絡していたら、弥生くんが家まで送ると言ってくれた。
道すがら、弥生くんはあの男性のことが気になったらしく、色々と話しながら帰った。
「あの白衣の人は…………?」
「黒いヒトから黒い靄が取れたらあの人がいたの。“あの人”は、ずっと明乃さんを黒い靄から守っていたのだと思う」
「守る……?」
やはり、黒い靄は人を死なせるもの。
あれが人に憑いてしまえば終わりだ。
だから、あの人は死なせないために弥生くんに『花』を視せて回避させていた。
本来なら、弥生くんが回避させることが、あの黒い靄を消すことに繋がるはず。
でも、明乃さんの症状はあの人が考えるよりも、ずっと重かったのだと思う。
「……僕だけの力じゃダメだった?」
「そう。黒い靄を何処かへ持っていける人じゃないと、ダメだったんじゃないかな……」
「柏木は……どこでそれに気付いたの?」
「うん。昨日の事がきっかけだけど……確信したのは昼間。たくみちゃんを助けた時」
視えたのだ。
たくみちゃんの黒い靄が晴れた瞬間、そこに『彼女を守っていた人』が視えた。
「……『たっくん』は、ちゃんと妹のことを守ってたんだよね」
手を振って消えていく懐かしい笑顔。
それで分かった、黒い靄の向こうには『誰かを守っている誰か』がいる……と。
黒い靄から必死に大切な人を守っている。
「柏木の“眼”は、その『誰か』を視るもの?」
弥生くんの“眼”は死を回避する予知だ。
「…………私の“眼”は」
『黒い靄が頭の上に来たら、その人は近いうちに死ぬ』
――――――違う。
助けたい『誰か』がどうしようもなくなって叫んでいた。
「私の“眼”に見えていたのは……『誰かが助けを求めて伸ばした手』……かな」
そうなの。
だから、頭の上で振っていたんだよね。
エピローグへ続きます。