第十三話 『花』真夜中の思い
――――ハルジオン。
春にはありふれたこの白い花が、私には白装束のように見える。
「あ……明乃さん……」
まるで嵐の中で立ち尽くしているようだった。
ベッドにはうずくまる、明乃さんの姿。
ナースコールで必死に話す、弥生くん。
私の側で直立したまま動けない、ゆかり。
――――――私、私は…………
前方、目が合った…………気がする。
私のすぐ正面に“黒いヒト”は立っていた。
口をパクパクとしきりに動かしている。
……はな…………はな…………と。
「…………や……」
許されるなら、ここからすぐにでも逃げたい。
『…………は……な…………は、な…………はな…………』
………………声!?
今まで『黒い靄』の声なんて聞いたことはない。
でも聞こえる、それの声だとハッキリ分かる。
『はな…………はな…………花…………花……を…………』
「……いやっ!!」
「ことは……!!」
思わず下を向きしゃがみ込んだ私を、ゆかりが抱きかかえるように支えてくれた。
『花……花を……』
「――――――っ!!」
もうやめて!! 聞きたくな――――
『花を…………捨てて…………』
「――――えっ!?」
その言葉に一瞬、無意識に顔を振り仰ぐ。
『花を…………部屋の外へ…………』
「………………え?」
目の前には黒いヒト。
でも、その姿はぼんやりと形が崩れたように、輪郭がもやもやとしている。
――――――違う。
少しずつではあるけど、黒い靄が千切れて離れていっているみたいだ。千切れた黒い靄を目で追っていくと、それはどんどんハルジオンへくっついていく。
『花を、部屋の外へ、捨てて…………』
黒いヒトの声がハッキリとする。
先ほどよりも靄が薄くなっていて、その靄の向こうに人間らしき影が見えていた。
「花は…………」
私は自分でも特に意識せずにふらりと立ち上がった。
「ちょっ…………ことは? どうしたの……?」
ゆかりの戸惑った声が聞こえたが、私の体は勝手に動いて窓辺へ向かった。
…………真っ黒な花束だ。
白く可愛らしかったハルジオンは、今や靄で覆われ黒い塊となっている。
まるで何かに引っ張られるように、花瓶に生けられたハルジオンの束を掴むとそのまま病室を飛び出す。
「ことは!? あ、すみません……!」
後ろで私と入れ違いに、医者や看護師が病室に入ろうとしているのが見えた。入り口でゆかりがぶつかって謝っているのも分かったのに、私の体は振り向こうともせずに速度を上げて、明乃さんの病室からどんどん遠ざかっていく。
黒い塊と化した花の感触は、植物の固さを手に伝えているはずなのに、私の頭はぶよぶよとした気持ち悪さを描いていた。
気持ち悪い…………早く、手から放したい!!
走り抜ける廊下にゴミ箱があったのをしっかり見ているのに、そこにこの花束を棄てようとせずに、廊下の突き当たりから階段を駆け降りていく。
十階から一気に階段を降りていく。怖いからもっとゆっくり行きたいのに、私の脚は一度も休まず速度も落ちない。
「………………っ!?」
バァンッ!! と、非常口の重い扉を開き、目の前の光景の中へ転がり込んだ。
「ここ…………?」
中庭だった。明乃さんに初めて会った場所。
ふらふらとある場所へ足が進む。
そこはやはり、明乃さんに会った木の下。
ぱさっ……。
私の手から花束が、木の根元へ落ちた。
やっと手放せ…………
奇妙なほどの安心感で、私は膝から崩れ落ちる。
ひれ伏すみたいに地面に倒れ、急激な眠気に襲われて目を閉じそうになるのを、必死で堪えて前方を見上げた。
さっきまでシャキッとしていたハルジオンが、物凄いスピードで萎れて朽ち果てていく。
花が完全に形を失うと、周りを囲っていた黒い靄は、ふわふわとさ迷った末に私を『見た』のだ。
――――――襲われる!?
反射的にそう思ったが、私の体は動かない。
訳も分からない恐怖に目を瞑りかけた時――――
ザァアアアッ…………!!
急に吹いた風に、黒い靄が流された。
「…………何……?」
起こった事態を一つも拾えぬまま、私はその場で気を失った。
…………………………
……………………………………。
『…………すみま…………僕の…………で……』
『気に…………いつ………………ら』
誰かが話している。
でも、真っ暗で誰かは分からない。
その声が聞こえてから私がハッキリと目を開けたのは、おそらくかなり時間が経ってからだと思う。
――――――病室……?
どうやら病院の個室みたい。ベッドサイドのオレンジの灯りが部屋を照らしている。
時計が見えないけど、今はきっと夜中だ。
「…………また……」
また倒れたんだ……と思わず口から出かかる。
私は子供の頃から時々、黒い靄を見続けて具合を悪くすることがあった。
中学に上がってからは、自己防衛も巧くなって倒れる回数も少なかったけど、油断するとすぐにこうなる。
私が起きたのに気付いたらしく、ベッドのすぐ脇で誰かが立ち上がった。
「琴葉? あぁ、大丈夫?」
「お母さん……?」
母親だ。
髪の毛をきっちりとまとめ、パンツスーツを着た、いかにも仕事帰りのキャリアウーマン風の母親の姿。
「…………私、病院にいるの?」
「久し振りに倒れたって、ゆかりちゃんから連絡がきたの。慌てて来たのだけど、あなたがなかなか目を覚まさなくて。医師に頼んで、そのまま一晩だけ入院させてもらったのよ」
昔から、ゆかりは私が倒れる度に母に伝えてくれていた。今回も急に走り出した私を追って、倒れているところを真っ先に見付けてくれたそうだ。
「そう……ごめんね。仕事だったよね」
母親は普段から父親の仕事を手伝い、営業であちこちを忙しく回っている。
「大丈夫よ。もともと、実弦の様子も見に来るつもりだったから……あ、そういえば……」
お母さんは口元へ指を当てて何かを考えていたけど、ふいにこちらを向いてニンマリといたずらっ子のような目をした。
「ゆかりちゃんはいつも心配してくれているけど…………え~と、ほら、あの子…………弥生くんって言ったかな? 琴葉の様子を見にきてくれたのよ」
「えっ!?」
弥生くんが私が寝ている間に来たと聞いて、何だか物凄く…………驚くというより、恥ずかしい気分になった。
「すぐに起きないから、かなり心配していたわよ。ふふ、琴葉ったらいつの間にあんなイケメンな子と…………」
「ち、違う! 弥生くんはただのクラスメートでっ……!!」
「お母さん、何も言ってないわよ?」
「~~~~~っっっ!!」
確かに……私は何を言い訳しようとしたのだろう?
「クラスメートだっていうのは彼に聞いたわ。あなたがその子のお祖母さんのお見舞いに来ていたこともね」
「そうだ、明乃さんは!?」
「今、集中治療室に入っているって。この数日が山だって言われたらしいの……」
「そんな……」
あんなに弥生くんが気を張って護っていたのに。
たった一度、『花』を飾っただけでこんなになるなんて…………やはり、弥生くんが見た『花』は飾ってはいけなかったんだ。
『花を捨てて……』
あの黒いヒトは明乃さんの味方なのだろうか?
私が黙って考え込むと、お母さんも黙ってこちらを見ている。
母はいつもそう。いつも私のことを考えて、仕事が忙しくても来てくれて心配している。
そして、私からは倒れた理由を聞いたことがない。
「ねぇ、お母さん?」
「なぁに?」
「お母さんは、私が何で倒れるか気にならない?」
少し驚いたように瞳が大きくなる。
「お兄ちゃんには言っていたけど、お父さんやお母さんにはあんまり言ってなかった。私は…………」
「“暗闇の眼”」
「え?」
「弥生くんから聞いたわ。自分の家の面倒に、琴葉を巻き込んだと謝ってきてね。だいたいの話は聞いたけど…………彼、とても言いにくそうだった」
弥生くん、お母さんにも話したの?
あんまり他人に言って回るような事じゃ…………
「この能力のせいで、あなたが辛い目に遭うかも……って分かっていたのに協力を頼んだって。だから、ゆかりちゃんにも話して、あなたの負担を減らそうとしたみたいね」
「………………」
弥生くんは明乃さんを護りながら、私のことも考えてくれていたんだ。
「お母さん、あのね……」
「うん?」
「私、弥生くんと一緒に明乃さんを助けたい」
今一度。いや、さらに強く。
――――“暗闇の眼”は人を助けるために使いたい。