第十話 昼、土曜日のクイズ
土曜日。私は昼頃に兄の病室へ来ていた。
『石垣屋のざらめ煎餅が食べたい!』というリクエストにお応えして、来る途中にある老舗の煎餅屋さんから、色々な種類を選んで買ってきてあげた。
ここの美味しいんだよね。
ついでに明乃さん用に、柔らかい豆おかきも買ってきてみた。
私も兄が食べるのに便乗して、抹茶と梅のざらめ煎をいただいている。
「お兄ちゃん、昨夜はちゃんと寝られた?」
「まぁ……ちょっと寝たら落ち着いたよね。これからやることも考えておかないといけないし……」
はぁぁぁぁ~~と地の底から出たようなため息と共に、兄の顔が枕に沈む。
いつもの兄にしては何か、何かが足りない。
「…………何かあった?」
「……………………」
「あったよね?」
「………………う~ん……」
いつもなら、鬱陶しいほどに会話をしてくるのだけど……。
「ねぇ、ことは?」
「なぁに?」
「昨日……一緒に庭にいた男の子って誰?」
「え?」
ベッドから動けないはずの兄が、なぜか弥生くんと一緒にいたのを知っているのか。
「あ、いや……母さんが窓を開けた時、下の庭で見付けたっていうから…………で、誰?」
「別に気にするようなことじゃないよ」
やましいこともないので、正直に弥生くんがクラスメートであることと、たまたまお祖母さんのお見舞いに来ていたことを教えた。
ただし『暗闇の眼』に関しては、弥生くんの許可なく言えないと思ったので内緒にしておく。
「クラスメート……ね。仲良い子なの?」
「う~ん、そんなに話したことなかったけど、良い子だと思う。しっかりして、ちゃんとした子」
「そうか、なら良かった」
ほっとした様子に、ちょっと驚いたのは私の方だ。一瞬、彼氏かと疑われたと思ったのだけど違ったみたい。
お兄ちゃんは私が何か見えることは知っている。
そのせいで私が一時的にいじめられたことも。だから彼氏というより、何か害がなかったか心配してくれていたらしい。
「…………ん、待てよ。まさか、彼――――」
「違います」
あ、彼氏の心配もしてた。
やっぱり安定のお兄ちゃんだ。ここは誤解が固まる前に否定しておこう。
「……病院でデートもないか」
「そうだよ。お祖母さんがいたのに……」
「そうだな。あぁ、『先生』もいたんじゃ、それはないか」
「ん?」
………………『先生』?
「先生…………って?」
「その、弥生……くんと、お祖母さんの他に先生もいたんじゃないの? ことはたちの近くに、車椅子の人ともう一人立ってるって、母さんが言ってたから」
何を言っているの? あの時は…………
「先生なんて…………」
「え? だって、しばらく四人でいて、その後に車椅子の人と『先生』が看護師さんと歩いて行った……って? まぁ、白衣着ていたから、お医者さんだと思っただけみたいだけど……」
白衣を着た『先生』なんていなかった。
あの時……明乃さんの側にいたのは…………
「お兄ちゃん、私、もう帰るね!」
「え? もう?」
「うん、何もなかったら、明日も来るから。じゃあね!」
「え~~?」
不満顔の兄の部屋を飛び出し、私は急いで (廊下は走らない程度で)聞いていた明乃さんの病室へ向かう。
私には『黒い人型の靄』しか見えなかった。
私の母親も多少霊感のある人だとは思っていたが、今まで霊が視えたなんてことは聞いたことがない。
しかし、何となく気配を感じるとかで、その時には私の眼には“黒い靄”が視えているような時だった。
白衣……お母さんには“白い人”が視えていたとか?
それはどういう事だろう?
やはり、あの黒い靄は人間……の姿なのだろうか?
弥生くんは視えていないらしいけど…………
明乃さんの部屋は十階の消化器科だ。
十階のナースステーションで名前を書いて、明乃さんへの面会の許可をもらってくる。
「えっと……こっちか……」
個室なので、あの奥の突き当たりの所かな。
部屋の名前を確認しながら進むと、目当ての名前が書かれた病室を見付けた。
病室の引き戸にはストッパーがしてあり、ベッドのカーテンが半分だけ閉まっている。
コン、コン、コン。
控えめに入室のノックをしてみたが、明乃さんからの返事がない。
「……明乃さん、失礼しますね」
もしかしたら眠っているのかと思い、そっとカーテンを覗いてみる。
「――――――っ!?」
まず、ベッドで静かに寝ている明乃さんが目に入った。
そしてその横…………丸椅子に“黒い靄”が座って明乃さんの顔を覗き込んでいるのだ。
“黒い靄”に見慣れているはずなのに、その光景にドキリと心臓が痛みを放つ。
いつものモノ。
ただ、やっぱり人型のモノ。
黒い。これを白衣とは間違えないだろう。
母が見たのはなんだったのだろうか?
ベッドの横でそれはゆらゆらと揺れている。
だけど……昨日も思ったのだけど、何かこの動きは明乃さんに『寄り添っている』ようにも見えるのだ。
これが、明乃さんを死なせる……?
「――――……何を、してるの?」
人型をしていたせいなのか、気付けば思わず“黒い靄”に話し掛けていた。
見えるようになってから十年ほど。
私は初めて“黒い靄”の存在に向けて、声を発して対峙したのだ。
“靄”がゆっくりとこちらに振り向く………………ように思えた。
こ……怖いっ!! 何か分からないから余計に!!
呼び掛けたは良いが、それからどうするかは何も考えていなかった。
目が、合う。
黒い靄の顔にあたる部分がこちらを向いている。
何もないのに、私は何故か視線がぶつかったような気がして、その場から動けなくなった。
どう……しよう……。
目を閉じることも顔を逸らすこともできずに、ただただ……私は黒い靄と見詰め合っている。
しかし、人間というのはやがて変化を探す。
私の目が靄の暗さに慣れたのか、顔のある部分が規則的に動いていることが分かってきた。
「……………………?」
『もあもあ』……と、効果音を付けるならこんな感じ。
何か一部が上下に動く。
…………これって……?
もあもあ……もあもあ……もあもあ……
「…………『あ』? 『ああ』?」
まるで口を『あ』の形に開けているよう。
…………あ、あ…………あ、あ?
たぶん、『あ』の列だ。
あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら……
「何だろう…………?」
それが分かった私は、怖さも忘れて考え込んだ。
凝視する私に応えるように、黒い靄はゆっくり大きく口を開いていく。
「『あ、あ』……『あ、さ』……『あ、た』?」
ひとつひとつ言っていく。
黒い靄の動きは変わらない。
きっと“このヒト”は何かを言いたいのだ。私の頭は自然とこの考えに到達していた。
「『か、さ』……『か、た』……」
まだ違う。
「『さ、ま』……『さ、ら』……」
正解ではない、上下の動きは止まらない。
これがちゃんと人間の口なら、きっとハッキリ解るのに!
「『は、か』……『は、さ』……『は、た』……は――――」
「柏木さん?」
「はぇ?」
『口パクゲーム』に夢中になっていた私は、急に後ろから声を掛けられ変な返事をしてしまった。
「あ、弥生くんっ! ごめっ……勝手に……!」
恥ずかしさに慌てている私をみながら、部屋に入ってきた弥生くんは、苦笑いをして首を傾げている。
「別にいいよ。ナースステーションの面会帳に、名前があったから……でも、何やってるの?」
「あの……えっと…………」
弥生くんはこの“人型の靄”が見えない。
とりあえず、今の状況を説明しようとした時、ふと弥生くんの手に持っている鮮やかなブルーの紫陽花が目に入った。
「紫陽花……?」
「うん、週に一度は花瓶用に持ってくるんだ」
「花を…………花?」
ハッとする。
振り返って、上下している口のリズムに合わせた。
「『は、な』……『はな』……『花』?」
一瞬、口が開いたままになり、やがて閉じて動かなくなる。それから、さっきとはまるで違う上下の動きをしたのだ。
――――――たぶん、『正解』……と。
私はやっと答えを言えたようだ。