第一話 プロローグ
ゆっくり更新です。
どうか、ゆっくりお付き合いください。
私は幼い頃から諦めていた。
初めて『それ』を見たのは、確か私が幼稚園に通っていた時。
年中さんの同じクラスの、やんちゃな男の子の足元に現れた。
「たっくん、『それ』なぁに?」
「なに? なにもねぇよ?」
『それ』は私にしか見えていなかったのだ。
最初は足元の埃か何かだと思った。
しかし『それ』は日に日に上へ広がっていく。まるで、その男の子に木登りするような感じで、足、背中、肩……そして、とうとう首に到達した。
後ろから見ると全体が『それ』で覆われている。
私はことある度に、たっくんから『それ』を手で払おうとしたのだけど、退けるどころか触ることができなかった。
「なんだよ、いっつもオレをたたいて……あ、さてはおまえ、オレのことスキなんだろ!?」
「ううん、ちがうから。バカ!」
『それ』のせいだけど、私はたっくんととても仲が良くなった。
それに、たっくんはとても元気な子で、風邪も引いたりもしないし常に走り回って健康そのもの。
だから私は『それ』が頭に貼りついていても、特に気にしたりしないように努めたのだ。
そのまま一年が流れ、年長になったある日のこと。
夏休みに入って間もなくだったと思う。
『それ』は、たっくんの頭の真上に登っていた。
まるで山の頂上で喜んでいる登山家のように、『それ』はユラユラとてっぺんで揺れていた。
「明日から、いなかのばあちゃん家にいくんだ! プールじゃなく、ホンモノの海だぞ! まいにち泳ぐんだ、スゲーだろ!」
「すごいね。かえってきたら、おばあちゃんの家のこときかせてね」
「いいよ、おみやげもってくるからな!」
「うん!」
私たちは笑って別れた。
三日、一週間、二週間、一ヶ月…………
たっくんは、おばあちゃんの家から帰らないようだ。
母親に聞いても、そう答えられた。
そして、
まだ蝉の声も残る八月の末。
母は私を連れて、たっくんの家を訪ねることになった。
夏の暑い中、私は白のワンピース、母はレースをあしらった全身真っ黒の服だった。
「暑くないの?」と聞いたら、「良いのよ」と返されたのを覚えている。
たっくんの家には何度も遊びに行ったことがある。たっくんのおばちゃんとも何度も会った。
「ありがとう。来てくれたのね……」
家に着くと、おばちゃんが優しく出迎えてくれる。
でも何だか様子がおかしい。
おばちゃんは痩せたみたいだ。目も赤いしクマもできている。
それに、おばちゃんがたっくんを呼ばない。
いつもなら、私が来ると大声で彼を呼ぶ。そうするとダダダと走る音がして、たっくんが玄関まで迎えに来るのだ。
しかし、彼の出迎えはなかった。
母と家に上がると、いつもの二階のたっくんの部屋ではなく、奥の和室に通された。
ひんやりと冷たい空気が奥から流れてくる。
それは冷房の風であったのだが、私には何か恐ろしいもののように思えた。
「たくや、ことはちゃんが来てくれたよ……」
おばちゃんはやっと、たっくんの名を呼んだ。
誰もいない場所に向かって。
「ことは、さあ……たっくんにご挨拶して」
やけにふかふかの座布団に座らせられて、火の点いた線香を母に渡された。
「お母さん? あれは、たっくんじゃないよ。だって写真だけだもん」
「そうね、写真ね。たっくんはその後ろにいるよ」
たっくんの写真の後ろには、白い布が被さった箱が置いてあるだけだ。
「あの中にたっくんがいるの」
「ウソだよ。たっくん、あんなにちっちゃくない!」
私がそう言った瞬間、おばちゃんは声を出して泣いた。
その時の私はまだ“人間の死”を理解できなかったのだ。
後から理解したのは、たっくんが海で溺れて亡くなったこと。
そして、もう二度と会えないのだということ。
あの日、たっくんと最後に遊んだ日、私たちは笑って別れた。
これが永遠の別れとなるとも思わずに……。
それからだ。
私に『それ』が度々見えるようになった。
ある時は足元。
ある時は首。
ある時は頭のてっぺんで揺れていた。
いつ、誰に、どの部分に『それ』が出始めるのか予想がつかなかった。
何処に『それ』が見えても、頭の上まで広がってしまうと自分にはどうにもできなかった。
『それ』はひとつであるとは限らない。
『それ』が現れる人間はそれぞれである。
『それ』は手で触ることも払い落とすこともできない。
何故、何もできない私に『それ』が見えているのか。『それ』を見付ける度に、私は全てを諦めてきた。
『それ』は黒い靄のような姿をしている。
その黒い靄がその人の頭のてっぺんにいくのだ。
登られた人間は必ず死ぬ。
私だけが見える“死神”の姿。
もちろん、そんなことを他人に話しても信じてもらえず、更には気持ち悪がられ避けられる。
誰にも言えない苦悩の日々は、それから十年以上続く。
まるで
誰も救えない私を嘲笑うかのように。