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青の季節から

作者: ライン

 ――夏。

 ――昼過ぎ。

 ――連日真夏日記録を更新中。

 ――クソあぶら蝉様は黙れ。


 久しぶりにクーラーの効いた部屋から出て、自分の体力の無さを思い知った。いつも来た道のはずなのに今日はやたらと坂が急な気がする。

 坂を上り終えた時に右手にある青葉公園からいつも掃き掃除をしているじいさんの姿(通称青じい)が見えて、学校はもう近いんだと少しほっとしたのも、きっと体力の無さゆえだろう。

 来訪者を拒むように閉じられた正門をバオーっと華麗にスルーし、裏門の自転車置き場へ一直線。誰もいない自転車置き場には蝉の屍が大量に転がっていて、これから待つ地獄の作業を暗示しているかのようであった。自転車を降りてすぐ、俺は夏の日差しを嫌って光を遮るために手をかざした。

 夏休みも後半に差し掛かろうとしていた時のことであった。


 夏休みが半分を過ぎた時「もう半分しかないのか」と思うのがネガティヴァーであり、「まだあと半分もあるのか」と思うのがポジティヴァーであるということを、さっき小夏(こなつ)から聞いた。

「お〜い小夏! もうそっちはいいからこっち手伝ってくれ」

 

 俺は出口慶祐(でぐちけいすけ)、高校一年生。廃部寸前に追い込まれた化学研究部(通称カガケン)に所属している。今回は顧問の吉田先生(四十二歳独身貴族・性別女・髪はボサボサ)の「理科室が汚くなったから、明日掃除しておいて。どうせ暇でしょ」という鶴の一声により、化学研究部の一年が総出で掃除に来たというわけである。総出と言っても俺と小夏の二人だけだけど……。

「なんだこりゃ、あの人一体何カートンタバコ吸う気だよ」

 理科準備室というより廃墟という表現の方が近いであろう、学校の中にある一つのパラレルワールド。俺はハエを払いつつ腕時計に視線を落とした。

 もう三時半か……。自転車置き場で腕時計を確認してから一時間以上が経過したわけだが、理科準備室の掃除はまだまだ六合目に到達したあたり。どうすればここまで汚せるのか問いたくなるほど、部屋は腐りきっていた。毎年一年は夏を過ぎるとやめていくと先輩が漏らしていたけど、なるほどこういうことだったのか。

「おい小夏〜! こーなーつー! こっちの」

 ドア越しに足音が近づいて来るのが分かる。

 そしてドアは悲鳴のような轟音を残し、蝶つがいが壊れそうな勢いで開かれた。

「うっさいわね、聞こえてるっての!」

 キイ……キイ……。ドアの断末魔のようであった。 

 ドアを蹴散らした彼女の名は篠塚小夏(しのづかこなつ)

 身長は平均やや低めよりさらにやや低めで、髪は黒髪のショートカット。見た目は健康的な小麦色スポーツ少女だが、頭脳は実は化学系であった。昔から化学に関しては右に出るものはいない。

 俺たち二人の関係は小学校の時からの友達? いや……もはや同級生の腐れ縁とでもいうべきか。まあそんな具合であり、クラスは違うが同じ化学研究部の所属である。

「……で、何よ?」

 この高圧的な態度は小学校高学年あたりから始まった気がする。

「いや、もう理科室はいいからこっち手伝ってくれ」

 小夏はわざとらしく髪をかき上げる仕草。

「こっちだって忙しいの。ビーカー運んだり、ビーカー洗ったり、ビーカーに話しかけたり」

「ビーカー多いな。つーか、最後は完全に病んでるな」

 なぜかはにかみながら、うつむく小夏。

「えへ。ま、まあね」

「いや別に褒めてないから」

 小夏のボケ。ツッコミ役はいつも俺だった。小夏は間髪入れず、

「うっさい!」

「急に怖!」

「私はビーカーが一番好きなのです」

 小夏はそう言うと理科準備室を改めて見回して、

「ホント酷い有様だね」

 俺はだらっと床に腰を下ろした。

「な。でも、これでも良くなった方だよ」

 小夏は一通り見回した後、スカートを翻しながら蝶つがいが馬鹿になったドアに手をかけた。

「ちょっと休憩しよ。私麦茶持ってきたから、メスシリンダーに入れてあげる」

「そこはビーカーじゃないんだ」

 その返しも聞かず、小夏はそそくさと理科準備室を出て行ってしまった。メスシリンダーとか飲みづらいにも程があるだろ。


 理科室の窓を全開にすると、緑の匂いが鼻をくすぐった。目の前には夏の木々で彩られた屋根があり、時折吹く風によってその姿を変える。蝉の声も先ほどよりは気にならなくなった。


 ――コポコポコポ。呑気な麦茶を注ぐ音。

 廃墟掃除もとりあえず一段落し、しばしの休憩タイムに入った。ビーカーで飲む麦茶はどこか薬の味がした。

「そういえばさっき吉田先生からメールがきて、『今日二日酔いがひどくて行けなくなった』だってさ」

 それなりにストラップを纏った携帯を振り振り、小夏。

「マジかよ。……ったく掃除くらい自分でしろよな。化学の『先生』なんだから」

 小夏は両手を伸ばして机に倒れこみ、

「あの人はああ見えて凄い人なんだよ?」

 初耳だった。

「へぇ、そうなの? まあ確かに風貌はそんな感じだけど」

「だったらいいよね」

 ――ガク。

 俺はつっかえ棒が取れたように顔を滑らしてしまった。

「願望かよ。あのさ昔から思うんだけど、見切り発車みたいな会話はどうかと思うぞ」

「何そのリアルなダメ出し。それ以上言ったら突き刺すよ!」

「怖! 何を?」

「そんなの剣に決まってるでしょ!」

 どうやら世間一般では剣に決まっているそうです。

「お前剣なんか持ってねーだろ」

「持ってます! 『もろはのつるぎ』持ってます!」

「自分もダメージ受けるの!?」

 小夏はまたもこちらを指差し、

「あ、あのね、いちいちツッコミがうるさいって私は思うの」

 と、もじもじしながら、しおらしい態度に急変した。

「なにそのキャラチェンジ。気持ち悪」

「黙れ!」

「やっぱ怖!」

「喋れ!」

「どっち!?」

 昔からこんなやり取りの連続であった。精神年齢の変わらない奴。まあ、俺もそうだけど。

 小夏は伸びをしながら溜息をついた。

「はぁ〜あ。でも何で私、夏休みという貴重な時間にこんなことしてるんだろ。本当だったら映画館でデートのはずだったのに……まあ、全部嘘だけど」

「嘘かよ。どうでもいい嘘つくな」

「ごめんね、どうでもいい嘘ついて。本当は『もろはのつるぎ』なんて持ってないんだ」

「そっち!?」

 空になったビーカーを小夏は振り振り。

「でも実際モチベーションをどこに置いて掃除すればいいか分かんないよね。別に化学の成績が上がるわけじゃないし、何もメリットがないもん」

「まあな」

「さてと掃除しようっと」

「切り替え早!」

 ……と言ったものの、小夏は持ってきた魔法瓶に手を伸ばす。

 ――コポコポコポ。互いに二杯目。

 雲が太陽の光を遮ったせいか、急に理科室が暗くなった。束の間の涼を麦茶とともに楽しむ。俺は天井を仰ぎながら、

「それにしても、小夏って昔から化学好きだったよな」

 手持ちぶさたになったのか、小夏は両手で試験管を転がし始めていた。

「そういう慶だって昔から化学好きだったよね」

「そうか? つーか別に今だって別段好きなわけじゃないぜ」

 小夏は遊んでいる手を止めずに、怪訝そうにこちらの顔を覗き込んだ。

「じゃあなんでカガケンにいんのよ」

 そう言われればそうだな、と我ながらに思った。

「いや、担任が吉田先生だから流れで誘われただけって感じ。廃部が近いからって頼まれたんだと思う」

「ふ〜ん。頼まれると断れない性格だもんね。誰にでも優しいし」

 理科室には試験管が転がっている音だけが響いていた。

「何だよ、そのトゲのある言い方」

「トゲじゃないし」

「じゃあ何だよ」

「アイスピック」

「より怖ぇよ」

 小夏はようやく遊んでいた手を止め、ビーカーに入った麦茶を一気に飲みほす。

「じゃあ別に化学が好きってわけじゃなかったんだ。好きだと思ってたのに……」

「え?」

「何でもない」

 小夏はそう言って立ち上がると試験管を棚に戻しにいった。そしてそのまま棚の整理に移っていくのだった。

 そうだ……話している場合ではない。準備室の掃除はまだまだ途中だった。俺もビーカーに残った麦茶を一気に飲みほし、地獄の業火の中へ舞い戻ることを決めた。


 気が付けば、理科準備室のゴミは二袋目に突入していた。中身はというと、タバコの吸殻に海外旅行のパンフレット、そしてお菓子の空き箱等、理科準備室はおろか学校にすら似つかわしくないものばかりであった。

 俺はようやくリレミトを使わなくても平気になった理科準備室を出て、小夏のいる隣の理科室に移った。

「お〜い小夏。そっちはど……」

 ――パシパシパシパシ。

 小夏はハンバーグをこねるかのごとく、なにかを右手から左手にパシパシ投げて遊んでいた。

「……そっち終わったんなら廃墟の方を手伝えよ」

 ――パシパシ。

「廃墟?」

 ――パシパシ。

「理科準備室のことだよ」

 ――パシパシ。

「おお〜なるほど〜。ハイキョだけにね」

 ――パシパシ。

「いや、何も掛ってないけど……ってさっきから何だその物体は」

 ――パシパシ。

「スライム。冷たくて気持ちいいよ」

 ……いやそういう問題じゃなくて、掃除しなさいよ掃除。

 小夏はようやく手を止め、

「そういえば、スライムってまだ持ってる?」

 掃除をするように促そうとした瞬間だった。逆に小夏の方から質問が飛んできた。

「は?? なんだよ急に。スライムってあのすぐ逃げたり、王冠かぶってたり、騎士が上に乗ってたりするアレか?」

 ……。

 ……。

 ――シーン。

 静けさレベルE。それはもうなぜだか涙が溢れる勢いで。そしてタイミング良く、人を小馬鹿にしたようなひぐらしの声だけが理科室に響いたのであった。

 小夏からわざとらしい溜息がもれる。

「はぁ〜。それはただのゲームでしょ」

「で、ですよね〜」

「私が言ってるのはドラクエの方」

「当たってたの!? うっ!」

 俺の目の先五センチという至近距離に、小夏が人差し指を突き出す。

「いちいちツッコミがうるさいの! スライムって言ったらスライム。覚えてないの?」

 いきなりスライムスライム言われても……。

「えー、あー、スライムねぇ。覚えているような覚えていないような」

 小夏は突き出した指を静かに引っこめると、

「そっか、そうだよね……」

 とだけ言い残し、スライムを後ろの棚に戻しに行った。

 スライム……すらいむ……駄目だやっぱり覚えていない。あーどけ、ぶちスライム。ぶちスライムを頭から追いやっていると、

「何か私たちってスライムに似てない?」

 小夏はしゃがみ込んだ状態で背を向けたまま、ぽつりと呟いた。

「……は? どうゆうこと?」

 さっきからどうしたんだこいつ。

 やけに静まり返った理科室には、さっきまで騒がしかった蝉の声はない。小夏は言葉を選ぶように、

「だから、スライムってちぎってもちぎってもまた付ければ元に戻るじゃない。そんな感じが私たちの関係に似てるなって」

 突然何を言い出すか。

「……別に俺たちはちぎられてないだろ。それにそれを言ったら粘土だって、」

「そうじゃなくて、こう、ほう砂と水のスライムという名の化学反応という昔からの腐れ縁が……」

 しどろもどろであった。

「うまいこと言えないならやめなさい。化学一本の奴に語彙力なんてないんだから。国語の成績だって4だろ?」

 当然睨まれた。

「うわ、ひっどーい。普通そこまで言う? 鬼! 人でなし! この悪夢!」

「む!? むって何だよ。『む』じゃなくて『ま』な」

 小夏はそっぽを向いて、「ふん」と一言。そして、また元の作業に戻っていった。俺も早く廃墟の掃除を終わらせて帰らなくては……。


 時計は五時を回り、ようやく準備室の掃除は片付いた。「廃墟」から「部屋」にレベルアップした姿と傷だらけの両手を見て、本気で時給を請求しようかと思った。帰ったらとりあえず寝よう。

「よし、そろそろ終わりにするか」

 準備室を出て俺が汗を拭いながらそう言うと、小夏はそそくさと帰り支度を始めだす。

「おい、鍵持ってるのお前なんだから先に出るなよ」

「うるさいな、分かってる! はいこれ、ゴミはよろしくね」

 男の宿命だった。


 俺は一人、パンパンになった二つのゴミ袋を両手に持った。その姿はさながらヤジロベーであり、そんな状態で夏の日差しに抵抗できることといったら、遠回りして日陰を選ぶことくらいであった。

 ――重い。化学馬鹿の小夏には一袋だって持てないだろう。……まあ、ハナから持つ気なんてないだろうけど。

 ゴミ袋をだだっ広いゴミ置き場に捨て終わった瞬間、一気に倦怠感が押し寄せてきた。こりゃ明日は筋肉痛確定だな……。

 それにしても小夏の言っていたスライムって何なんだろう。あの話から機嫌も悪いし。

 スライム……スライム。

 スライムといえば化学で、化学といえば小夏。そうそう、小夏は小学生の時から化学クラブに所属していたっけ。

 周りが悪戦苦闘する中、小夏は人一倍スライム作りが上手かった。あの時作ったスライムはまだ持っているのだろうか。あ、でも、スライムにも寿命くらいあるか……とそんなことを考えている時だった。見慣れた人物が目に入ってきた。

 ――あれは青じい。

 青じいは倉庫の横に設置されたベンチにちょこんと座り、扇子をパタパタやっていた。学校の中に勝手に入っちゃまずくないか。そう思いながらも俺は青じいに近づいていく。

「お〜い青じい。どうかしたの?」

「おお〜、いつもの何とか君じゃないか」

 青じいはそう言いながら人の肩をポンポン叩く。

「……いい加減名前覚えてよ。俺の名前は出口慶祐だから」

「あ〜? あんだって?」

 青じいはわざとらしく右手を右耳に添える。いわゆるお年寄りが話を聞こうとする時のポーズである。

「だから、出・口・慶・祐!」

 今度は伝わったようで、「おお〜そうじゃったそうじゃった」と青じいは何度も頷いた。

「ふむ、よく聞こえんかったわい」

 ――ズコ。

「聞こえなかったんかい。ったく、年を取ると耳が遠いな」

「誰が年寄りじゃ!」

「そこは聞こえるの!?」

 二つの意味でボケ役であった。

「まあ名前はいいや。それより青じい、どうしてここにいるの? 公園は?」

「公園は蝉の鳴き声がうるさくてならんからな。掃除も終わったし、散歩じゃな」

「ふ〜ん。蝉の鳴き声ね……」

 ――ん、なんだこの感じ。鳴き声……公園で……。


 ――スライム。

 ――化学。

 ――小夏。

 ――公園?

 ――鳴き……泣き?


 すると突然強い風が吹き、木々がざわめいた。そう、あの時もこんな感じの強い風が吹いていて……って、あの時ってなんだ?

「――あっ」

 ――そうか、そうだった! 思い出した、何もかも。

「どうしたんじゃ? 鳩が豆鉄砲で射殺されたような顔して」

「怖! それは残虐だけど、でもありがとう青じい!」

 嬉しさの余り思わず青じいの両手を掴んでしまった。

「おお。いつでもわしを頼ってくれてかまわないからな」

「うん、本当ありがとう! 俺ちょっと急ぐわ」


 ――思い出した。

 小学生時代化学クラブに所属していた小夏は、綺麗なスライムを作ってみんなから羨ましがられていた。でもある日、俺が親に怒られて公園で泣いていた時に、小夏はそのスライムをくれたのだった。怒られた理由なんて、今思えば大したことのないものだったはずだ。それなのに、いつまでも小夏は傍にいてくれて……。

 そして二人で家に帰る途中、最後に小夏がくれた小さな箱。その中には青く澄んだスライムと、小さな手紙が添えられていた。あのスライムは化学が大好きだった小夏にとって、一番の宝物だったに違いない。そうそう、手紙は誤字脱字だらけだったっけ。便箋も女の子っぽくなかったような覚えがある。中身は……勉強頑張ろうとか、友達とケンカしちゃダメとか、そんなんだった気がする。


 そりゃ機嫌も悪くなるわな……。とりあえず思い出したことを言わないと。

 理科室を出てから大分時間が経っている。小夏が一人で帰ってしまうのではと思い、俺は階段を一段飛ばしで自転車置き場へ向かった。

 裏門を出て正門まで急ぐと、正門には小さなシルエットが一つ。一目で小夏と分かり、俺はホッと胸をなでおろした。


 正門から二人で並んで歩く。日差しは相変わらず強かったが、蝉の声はひぐらしのものに変わっていた。

 二人に会話はなかったけれど居心地の悪さはなく、それはきっとさっきまでの後ろめたさが解決したおかげだと、自分の中で勝手に思っていた。

 左に目をやると青葉公園が見える。青じいは……当然だが居ない。俺は意を決して小夏に話し掛けた。

「小夏、お前誕生日もうすぐだったよな」

「そうだけど……」

 いつもの通学路なはずなのに、学生の声がないと大分雰囲気が変わる。自転車を押す音だけが辺りを包み、その音がどこか涼しげで、夏の暑さを和らげてくれている気がした。

「そもそも名前が小夏だもんな。未熟児で夏に産まれてきたから、小夏になったんだっけか」

 小夏は少し前に出たと思うと、チラっとだけだが初めてこっちを見た。

「良く覚えてんね。そんな大昔に言ったこと」

 小夏は大昔の「大」に気持ち力をいれていた。

「それくらい覚えてるよ」

「ふ〜ん」

 俺はふぅ〜と一つ大きな息を吐いた。

「誕生日は何がいい? 化学研究部だからスライムにするか? 青くてメッセージ付きのやつ」

 そう言うと、がばっとスカートが舞う勢いで小夏が振り返った。

「なによ、覚えてたの?」

 小夏は視線を外すようにまた背を向け、

「覚えてたんなら、そん時言ってよ」

「悪い。さっき思い出した」

 一瞬怒っているように見えたが、前を歩く小夏は両手を後ろで組みだした。そのいつまでも変わらない姿に、小さかった頃の思い出が浮かぶ。これは小夏にとって、機嫌がいい時の印みたいなものだったからだ。俺は続けた。

「忘れてたお詫びに今日は何か奢るよ」

 再びがばっと振り向き、今度は満面の笑み。犬だったら間違いなく尻尾を振っていたであろう。さっきまでの閉鎖空間が嘘のようである。

「ホント!?」

「おうよ。どんと来ーい」

 いつもこんな笑顔をしていればいいのに……心からそう思う。小夏は両手を広げ、

「やったー。でも、今決められないから、奢ってくれる分の現金がいいな」

「ねーよ、それはねーよ」

 こいつの場合、マジっぽいから侮れない。

「じゃあ小腹減ったし、いつもの喫茶店で何か奢ってよ」

 俺はただ頷いて見せた。

 まもなく坂の下りだ。あたり一面に広がっている山や街並み、そんないつも見ている景色が今は何だか嬉しい。

 俺が小夏を自転車の後ろに促すと、小夏もその意味を理解したらしく、小走りで近付き鞄を自転車のかごに叩き込んだ。


 いつもの喫茶店こと「カドヤ」に到着した。名前の由来は交差点の角にあるから。何と単純明快な名前の付け方だろう。

 カントリー風の店内には、やや暗めに設定された照明。席と席の間には、ぽつんぽつんと観葉植物が置かれている。こんなに暑いから涼みに来ている人もいるかと思ったが、お客は数人いる程度だった。

「ご注文はお決まりになられましたか?」

 小夏は店員にそう言われてから初めてメニューを広げ、どこというわけでもなく指を泳がせた。

「えーと、この喫茶店で一番高い料理って何ですか?」

 なるほど、そういうことですか。

 店員は予期せぬ発言に、虚を突かれた感じであった。

「え? あ、はい。えーそうですね、こちらの夏季限定スイーツ、ジャイアントパフェサンデースペシャルで一五○○円になりますが」

 小夏は笑顔でメニューを閉じた。

「じゃあそれ一つとアイスレモンティー二つ。以上で」

「あ、俺自動的に紅茶だけなんだ」

 店員がチラっとこちらを見たので、それでいいですと合図を送った。


 まず先に紅茶だけが届いたわけであるが、俺は間違えて角砂糖を取ろうとしてしまった。小夏はそんなミスを見逃すはずもない。

「角砂糖じゃ溶けないでしょ。そっちのガムシロ取って! 砂糖が四角く固まってるやつ」

「どっち!? あれ……そういえば小夏って角砂糖は二つだったっけ?」

「いくつに見える?」

「OLか」

 そんなやり取りをしている後ろ、先程の女性店員がカタカタと音を立てながら、亀も驚きのスローモーションで近づいてくる。

 うん、あれは間違いなくここの席に来る。俺はそう確信した。

 そして、三十秒が経過。

「こ、こちらがジャイアントパ、パフェ、サンデース、スペシャルになります」

「わ〜い」

 相当重いのか、パフェを持つ女性店員の手が震えている。

 小夏はというと、自分の顔が隠れてしまうのではないかと思えるほどのスイ……デザートを嬉しそうに待ち構えている。

 喫茶店中の視線が全てここに集まっている気がした。いや、現に集まっているな。といっても一、二……五人くらいしかいないけど……あ、店長もガン見してるから六人か。

「いっただきま〜す」

 そんな視線を知ってか知らずか、小夏は無我夢中にジャイアントパフェなんちゃらの削り作業に突入した。

「これじゃあ、小夏じゃなくて大夏になっちまうな」

 小夏はパフェに伸ばしたスプーンを止め、女子高生のパンチラを拝めたサラリーマンばりの笑みを浮かべる。

「なにそれ。全然おもしろくない」

 うまいこと言ったつもりかとでも言いたそうな視線。

「別にいいし。誰も人を笑わそう何て思ってないから」

「なにそれ、おもしろ〜い」

「どっち!?」

「そのツッコミ飽きた。あと、いちいちツッコミがうるさいです」

 小夏はそう言いながら、巨大パフェに軽く突っ込んだであろうスプーンを勢いよくこちらに向けてきた。

「――冷た!」

 思わず顔を背けてしまった。触って確かめてみる……左側だ。

「あ、ごめん」

 左の頬から甘い香りがする。先程までスプーンの器にいたであろうジャイアントパフェなんちゃらの断片は、忽然と姿を消していた。まあ要は俺の頬にダイブしたと。

「まだ付いてるよ。私が取ってあげる」

「え?」

 ――!

 小夏は右手人差し指を俺の左頬に優しく乗せて、ゆっくりと撫でるようにアイスを拭き取った。そして、その流れでジャイアントなんちゃらスペシャルを美味しそうに舐めあげた。

 唖然とする俺に小夏は、

「何どうしたの? 鳩が豆鉄砲で射殺されたような顔して」

「怖ぇよ! つーか、それ流行ってんのか?」

「何、流行ってるって……?」

 そりゃ意味分からないだろうな。

「なんでもねーよ、こっちの話だ」

「うわー、何か凄い気になるし」

 ちょっと優越感。奢ってやるわけだし、やっぱりこれくらいの心理状況じゃないとな。

「仕方ないな、じゃあ教えてやるよ。さっきゴミを捨ててた時に、」

「このパフェ美味しいね〜」

「全然気になってない!?」

 小夏は勢いよくなんちゃらパフェサンデーなんちゃらを平らげようと必死だ。ったく、ホント何考えているんだか分らん奴。

「なによ? 私の顔に何か付いてる?」

 付いてますよたくさん。ジャイアントなんたらサンデーが口の周りにね。

「いや、なんでもねーよ」

 俺は紅茶を飲みながら視線を窓の外に向ける。青い空の向こうからは夕日が今か今かと出番を待っていた。


 今年の夏ももう終わりか。毎年のことだが、そう思うと名残惜しい気がするのはなぜだろう。ちっぽけな夏だったけどさ。


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― 新着の感想 ―
[一言]  先日はお世話になりました、あびこゆうじです。早速ですが感想一発目ということで。  前に読んだときも思いましたが、この作品はラインさん特有の軽妙かつ独特なノリの会話シーンが最大のキモ。むしろ…
2011/04/18 22:41 退会済み
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