50 詩音
「姉ちゃん今時間ある? 悪いんだけどちょっとつきあってくんないかなあ」
「珍しいね、休みの日に。どうしたの」
ある晴れた日曜日の午後、朝子から電話があった。
「詩音がどうしても七ちゃんに自転車乗れるとこ見せたいってきかなくてさ。いま家族で河川敷の一本木んとこに来てんだけど、七ちゃん連れて出られない? もちろん家族優先でいいんだけどさ」
「自転車? すごい、詩音くんもう自転車乗れるんだ。予定は特にないと思うけど、聞いてみるね」
七緒は、誠司と二人並んで飽きもせず録画してあった経済ニュースを見ている。
電話の向こうでは子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。
朝子たちだけじゃなく大勢の子供達が河川敷に遊びに来ているのだろう。
「詩音くんが自転車乗れるようになったから七緒に見てもらいたいんだって。行ける?」
「お、いいね。ひましてたし」
受話器を手にしたまま二人の背中に向かって声を掛けると誠司が返事をした。
七緒はテレビの画面に吸い込まれたままだ。
誠司が七緒の顔を覗き込み復唱すると七緒はいきなりソファーで飛び跳ねた。
大歓迎ってところだろう。
七緒が自分も自転車に乗っていくと言いはるので、誠司が手押し棒付きの自転車をベビーカーのように押して歩いた。
もちろんまだ補助輪付き。
七緒は肩が凝ってしまいそうなくらいぎゅっとハンドルを握りしめて、緊張している。
怖いのなら無理しなくてもいいのにと思う。
七緒の自転車へのあこがれは強く、早くから欲しがった。
詩音と同じタイミングでじぃじが贈ってくれたけど、七緒は未だ三輪車にも乗れない。
漕ぐ以前に、揺れを怖がって自分一人ではまたがるのがやっとなのだ。
「お母さん、七ちゃんたち来たよ! おーい!」
堤防の高いところから莉音が声を張り上げ、下の道に向かって手を振った。
手を振り返すと、莉音は早く早くと跳ねて手招きし、河川敷の方へ降りていく。
詩音たちがすでに練習を始めているのだろう。
私たちも莉音を追って堤防を登り河川敷へ降りた。
「姉ちゃんごめんな、わざわざ呼びつけて」
「大丈夫。ひましてたから」
「ねえ、七ちゃん、見て。あたしバッタ、捕まえたんだよ」
「バッタ!」
誠司が七緒を自転車から下ろすと、莉音はすぐさま首から下げた虫かごを七緒の前に差し出した。
かごの中のバッタたちが羽を震わせて飛び上がる。
「七ちゃん、バッタなんかより自転車! 俺自転車乗れるから。見ろよ」
「ああん、バッタァ!」
「やめて詩音!」
「あ、こら、詩音くん」
ヘルメットをかぶった詩音が虫かごを取り上げると、七緒は叫んだ。
莉音は強引に虫かごの紐を引き抗議する。
「そんな乱暴にしたらバッタさんがかわいそ……」
「こらぁっ、いきなり喧嘩してんじゃねーぞ。バカども」
「イテッ」
「だって詩音が!」
誠司や私が咎めるより早く父親の吏樹さんのチョップが莉音、詩音の頭に落ちた。
それでも文句を言い募る莉音の首から、朝子が強制的に虫かごを取り上げる。
「両成敗。せっかく来てくれたのに、喧嘩はないだろ。自転車でも虫取りでもなんでもいいけど、喧嘩しないで決めらんねーの?」
「自転車! 俺が七ちゃん呼んでって頼んだんだぞ!」
「……わかったわよ」
「じゃあ、終わるまで虫かごは七ちゃんのママにお預けだ」
朝子は虫かごを私の胸に押し付けた。
「あ。これショウリョウバッタ? なんでおんぶしてる?」
「え。七ちゃんバッタの種類わかるの?」
「あーもう、バカ莉音!自転車が先って決めたろ!」
「自転車が終わったらね。バッタのことは後でなんでも教えてあげます」
七緒の目がバッタから離れないので、虫かごを背中に隠し後ろ手に誠司に手渡す。
「七ちゃん見てろよ。一本木まで行って帰ってくるから。いいか、まずこうやって足を乗っけるだろ……」
「さっさと行きなよ」
莉音のツッコミをスルーし、真剣な顔で前を見つめ詩音は足に力を込めた。
ふらつきながらもタイヤが回り始める。
「動いた……」
七緒が口をぽっかり開いて詩音の後ろ姿を見つめる。
詩音はあっという間に一本木をぐるりと回った。
カーブも危なげない。
「どうだぁ! 見てたか、七ちゃん。俺早ぇだろ?」
「ばかじゃん? そんなの超簡単だし」
「莉音!」
くさす莉音を朝子が一喝する。
「すごいね、詩音くん。七緒釘付けだったよ」
「驚いたか!……ってな、七ちゃん? なに?」
私が固まって無反応な七緒に変わってフォローをすると、七緒は無言で詩音のもとに寄っていった。
「……どうやって」
「七緒、人の乗っている自転車に触ったら危ないよ」
「あ〜、詩音。顔真っ赤!」
七緒は詩音の手の上からハンドルをぎゅっと握りしめ、そのままじっとペダルに乗った足に顔を近づける。
自転車からそっと七緒の手を引き剥がすと、莉音のからかいの声が上がった。
「えっ、まさか詩音くん、七緒のこと……」
「そうそ。おじさん、詩音は七ちゃんのこと好きなんだよ!」
「ちっげーよ! ばっかじゃねーの!」
「わかった、わかった」
誠司が幼稚園児相手に動揺した声で尋ねると、莉音が悪ノリし詩音が叫んだ。
吏樹さんが、自転車から手を離し拳を振り上げた詩音を抱きとめる。
「いや、この反応は本気だろ。七緒をタンポポ幼稚園にやるのもいいかと思ってたけど、うーん」
「あはは。詩音はいいナイトになると思うよ。七ちゃんのこと尊敬してるからね。私もそうだったもん。小さい頃は姉ちゃんが自慢で、ちょっかい出すやつには片っ端から噛み付いてた。おかげでばぁばにはとんだお転婆だって怒られてばっかだったけど」
一人真剣に眉を寄せる誠司に朝子が笑いかける。
「私が朝子の自慢? 聞いたことないよそんなの」
「言うもんか。言ったら負け確定じゃん。何なら”完璧夕子”を越えられるかって一人で勝手に勝負して、絵なら負けないって。それで私、絵ばっか描いてここまで来たんだから。大して誰にも認めてもらえなかったけどさ」




