45 もういっかいやりなおして
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「姉ちゃん、こっちこっち!」
運動場の登り棒前で、手招きしている朝子を見つけた。
行くよ、と七緒の手を引き歩み寄る。
朝子に誘われてタンポポ幼稚園の運動会を見に来たのだ。
詩音は七緒と同じ年中。
そして年長の莉音は園で最後の運動会だ。
「七ちゃんおはよう。二人とも忙しいのに、来てくれてありがとう」
「全然、結構暇してた。誠司は出張だし、七緒幼稚園辞めたからさ」
今日、朝子に退園したことを打ち明けよう。
できるだけあっさりと。
そう決めていた。
「そっか。じゃあ七ちゃん運動会初経験だ。あれ? ひかり幼稚園の何だっけ、プレクラス? そこでやったことあるのかな」
「ううん。プレに入ったの十月だから、運動会は終わってた。……それにしても初経験って、七緒は見るだけだよ?」
朝子の言葉に首をかしげクスクス笑ってみせる。
退園の話を取るに足らないことのように流してすぐに運動会の話を振るのが、なんだか朝子らしかった。
七緒の障害について打ち明けた時も、朝子はそうかの一言だった。
診断の経緯や障害の内容について何も尋ねず、すぐさまだったらタンポポ幼稚園にきたらどうかと誘ってくれたっけ。
「見るのも来年の予行演習、なんてな。……これ今日のプログラム。莉音が出るのがピンクのライン。詩音のは緑。番号で放送流してくれっから見られる時だけでも見てってよ。私たちの席はあそこ。ほら七ちゃん、すぐそこにじぃじとばぁばがいるの見えるだろ? 椅子に座ってんの」
朝子が指で指し示す。
トラックから離れた後ろの方で、膝の悪いばぁばがコンパクトなアウトドアチェアに腰掛けているのが見える。
あまり前に席を取ると顰蹙を買うと思ってのことだろう。
朝子が一緒に見ようと席に誘わないのは、行儀よく見られるとは限らない七緒がばぁばの目につかないよう配慮してのことかもしれない。
礼儀に厳しいばぁばは、きっと一度席に着いたら騒ぐこともトイレ以外に席を立つことも許さないだろうから。
こういった人前では、特に。
七緒は朝子が指差す先ではなく指そのものをじっと見つめ、ピンときていないようだった。
「ありがと朝子。適当に過ごしてるよ」
「……ん。じゃあ私はビデオの準備があるから」
朝子はあっさりと手を振って、席へ戻って行ってしまった。
タンポポ幼稚園の運動会を観に行くのはこれで二度目だ。
一度目は二年前。
莉音が入園した年。
演技の時間に合わせて家族三人でちらっとだけ顔を出すつもりだった。
運動会は毎年枝川小学校の校庭を借りて行われていて、七緒が小学校に入るのはその時が初めてだった。
最初から最後までなんてとても持たないだろうからと、莉音の出番に合わせて遅れて見に行った。
正門を入ってすぐ左手にある砂場で七緒は動かなくなった。
アリの大群を見つけたからだ。
砂場を囲う木製の縁が腐っていて、そこからたくさんの小さなアリが出入りしていた。
七緒はそれに夢中になった。
「後で顔見せれば、莉音ちゃんも満足するだろ」
誠司は早々に運動会を見せることを諦めた。
当時七緒は三歳で、思い返せば一番頑固さの強い頃だった。
こうなってしまうと別に興味を移さない限り動くことはない。
そして騒がしい運動会を見ることが七緒の気持ちを引きつけるとは到底思えなかった。
「そうね、会えなかったら後で朝子に電話するわ」
七緒に付き合おうと隣にしゃがみこんだ時、突然詩音が現れた。
「あ、やっぱななちゃんだ! ……うわ。これアリ? すっげ」
詩音は目をキラキラさせて、七緒のそばにしゃがみこんだ。
「すっごくいっぱいいるんだよ」
七緒は砂にまみれるのも構わず寝っ転がってアリを観察している。
実はその頃、莉音は演技の真っ最中だった。
パパと一緒に大玉ころがしに出ていたのだ。
じぃじは莉音に入場門まで見送ってとせがまれて、席を外していたそうだ。
残っていたのは朝子とばぁばの二人。
朝子がビデオを回し始めて間もなく、ばぁばの隣でおやつを食べていたはずの詩音が姿を消した。
門の外は交通量の多い四車線の国道だ。
詩音の不在に気づいた瞬間、朝子たちは運動会のビデオ取りどころではなくなってしまった。
「詩音! こんなところで何してるのっ!」
背中越しにばぁばのキンとした怒鳴り声が飛び込んできた。
心臓が跳ね上がる。
走り回って探したのだろう。
振り返って見上げたばぁばの頬が汗ばんでいる。
「……夕子? あんた何をしているの! こんなに遅れてきて。……んまぁ、七ちゃんもこんなところに寝っ転がってみっともない。立ちなさい! あんたたち莉音ちゃんの応援に来たんでしょうが!」
「お義母さん、あの……」
誠司が呼びかけるのにも構わず、ばぁばは砂場に踏み入り寝っ転がっていた七緒を引き起こした。
ばぁばの足が朽木を踏みアリが迷走する。
「いやああ!!!!! アリが!!!」
七緒は絶叫した。
思わずばぁばは顔を歪め、手を離す。
「バカばぁば! よくもアリのおうちこわしたな!」
詩音が立ち上がり、ばぁばの腰を拳で打った。
「おいこら、詩音くん! 叩いてはダメだ」
誠司が詩音の小さな拳を掴む。
「いやだああああああああ」
七緒の絶叫はサイレンのように響き渡った。
応援席の人たちが私たちを振り返る。
「……バカばぁばって、今はそれどころじゃないでしょう! 何をする時かわからないの? 詩音、こっちに来なさい!」
ばぁばは誠司の手から詩音の腕を奪うようにして掴んで引き上げた。
「やだ! 七ちゃんに謝れクソババア!!」
「……七ちゃんは詩音と違ってもうちょっと賢い子だと思ってたけど。親が付いているのに何考えているの。運動会の間子供を遊具で遊ばせないのがマナーでしょう」
叫ぶ七緒から目をそらし私たちに向かって叱りつけるような言葉を投げると、ばぁばは暴れる詩音の手を引いて席へと戻って行った。
七緒はうずくまり、発狂したように砂場に額をこすりつけている。
「もういっかいやりなおして。もういっかい……なおして! なおして!! なおしてええええええええ」
七緒がばぁばの前でパニックを起こしたのはその一度きりだ。
……あの時のことを七緒は覚えているだろうか。




