43 電話
43
洗濯物を干そうと窓を開けると、バイクの音や鳥のさえずりが飛び込んできた。
遠くでセミの声がする。
夏休みの間あんなに賑やかだった子供やママ達の声は、魔法が解けたように消えていた。
シャツのシワを手のひらで伸ばしながら、新学期が始まったからだな、とぼんやり考える。
九月に入って、どれくらい経ったのだろう。
私と七緒は未だ宇宙に浮かぶカプセルの中にいるように、世間からぽっかり浮かび上がっている。
時刻は。
園バスはもう過ぎた頃だろうか。
公園の向こうにある停留所に目を向ける。
この頃は午前中、二人で公園に出るようになった。
スーパーに買い物へも出かける。
いつも同じ時間に犬の散歩をしているおじいさんや、よちよち歩きの幼児を持つお母さんとも普通に挨拶を交わすようになり、七緒の変わった行動がそれほど気にならなくなった。
七緒は犬のことをあれこれ尋ねたり、赤ちゃんの落としたおもちゃを届けたり、それなりに自分から人と関わろうとしているということに気がついた。
駆け引きだったり、悪意だったり、力関係だったりがある子供同士の関係は難しいかもしれない。
けれど七緒の唐突で一方的な問いにもちゃんと答えを返してくれる”大人”という存在に、七緒は心を開いている。
大人を信頼している。
これは園で大切にされてきたからなのだろうか。
大人はわかってくれると、感じてくれているからだろうか。
突然、目覚ましがなるようにくっきりとした音を立て、テーブルの上のスマートフォンが鳴った。
空になった洗濯カゴを持って慌てて部屋に戻る。
スマートフォンの画面を見ると「佐藤愛羅ちゃんママ」の文字が浮かんでいた。
なぜ、愛羅ちゃんママが。
七夕会の日、パパに抱きかかえられて救急車へ向かう愛羅ちゃんと、慌てた様子で二人を追うママの姿が浮かんだ。
スマートフォンを持つ指が震える。
「もしもし、七緒ちゃんママ?」
通話ボタンを押すとすぐに、愛羅ちゃんママの静かに探るような声が届いた。
目を瞑ると、物腰柔らかく控えめな彼女の姿がまぶたに浮かんだ。
「あ……こんにちは。あの、七夕会の時は七緒がお騒がせして、本当に……」
混乱し、生ぬるい汗が背中を伝う。
電話をかけてきたのはなぜだろう。
七夕会の日のことを気にかけていたことを示したくて、あの日のことを口走る。
「ちょっと待って。謝りたいのは私の方なの。後で園から事情を聞いて、あの時七緒ちゃんママを突き放してしまったこと、ずっと後悔してた。本当にごめんなさい。愛羅の怪我とか手術のことで頭がいっぱいで……そんなの言い訳にしかならないんだけど、七緒ちゃんママがつらいときだったのに、私……」
私の言葉を遮り、愛羅ちゃんママが謝罪の言葉を口にする。
「そんな、愛羅ちゃんが意識不明で気が動転してたのに、こっちこそごめんね」
「謝らないで。七緒ちゃんは何も悪くなかったんだから。七緒ちゃんママ、それ悪い癖だよ」
愛羅ちゃんママの指摘に七夕会の事件の時誠司に謝るな、と怒鳴られたのを思い出す。
それから私がごめんと口にするたびに、姉ちゃんもっと堂々としなよ、とため息をついていた若いの頃の朝子の姿が浮かんだ。
――姉ちゃんは悪くもないのに、なんですぐ謝るのさ? こんなんじゃあたし、姉ちゃんに思ったことなんか言えない。
ごめん。ごめん朝子。私がもっと……――
「……七緒ちゃんママ?」
「あ、ごめんなさい」
愛羅ちゃんママに呼びかけられて自分の世界に入っていたことに気がつきハッとする。
「ほらまた。ダメだって言ってるのに」
たしなめる言葉と裏腹に愛羅ちゃんママはくすくす笑った。
「愛羅ちゃんはあれから元気にしてる? 手術は?」
「日程は遅れたけど、おかげさまで手術も無事成功。前よりやんちゃになって、愛羅って実はこんな激しい子だったのってびっくりしてるとこよ」
明るい声にほっとする。
「児童館でもボールとかフラフープとか、プレイルームで遊ぶのが好きだったもんね」
活発で香澄ちゃんたちにもしっかり自己主張してきた愛羅ちゃんのことだ。
心臓の苦しさがなくなって、動けることが楽しくて仕方がないんだろう。
「うん。……七緒ちゃん、児童館に行っても会わないしあれからどうしてるかなって思ってたの。愛羅が検査やらなんやらで休んでいるうちに、ばたばたっと夏休みに入っちゃったじゃない? 昨日園からのお便りで七緒ちゃんが園をやめたって知って、それでいてもたってもいられなくなって。やっぱり原因は七夕会なの?」
愛羅ちゃんママはそのことが聞きたくてわざわざ電話をかけてきたんだ。
胸がきゅっと絞られるように痛んだ。
「……ううん、そうじゃない……そうじゃなくて、みんなには感謝してる。でも……」
「でも、一人だって思っちゃったんでしょう? ……悩んでるのは七緒ちゃんママだけじゃないよ」




