39 夏休み
39
洗濯を干そうと窓を開けると、セミの合唱が霧雨のように染み込んできた。
霧が広がるように、部屋の空気が一変する。
階下からクラッカーがはじけたように、やだぁ〜と複数の女性の声が上がってくる。
アパート前の小さな公園で、幼子を持つママ達が子供を遊ばせているのだろう。
うちの賃貸アパートは小さな子供を持つ世帯が多い。
目の届くところにある公園で子供同士が日々楽しく遊んで過ごす未来を思い描いて、かつての私たちもここを選んだのだ。
それなのに、ママ達の声はふくらはぎを伝い這い上がるムカデのように、私を芯からをゾクゾクさせた。
知った声ではない。
二階の部屋からでは相手の姿も見えない。
それでも人の声に私は怯えた。
洗濯物は、部屋に干せばいい。
窓を締め、クレセント錠にぎゅっと力をかける。
窓というバリアの外に押し出された声はくぐもり、もう私を追い詰めることはない。
大丈夫。
窓に額をつけ息を吐く。
目を閉じると額にうっすらお日様の温かみを感じる。
温もりは私と隔てられた向こう側にある。
誰とも知れない人の気配、視線、そのいちいちが恐ろしいと感じるようになったのはいつからなのだろう。
気がつくと私は外へ出ることができなくなっていた。
相手は私なんて知らない。
わざわざこんな知らないおばさんのことなど誰も見ない。
なんとも思いやしない。
そんなことはわかっている。
だけどダメなのだ。
大丈夫だといい聞かせてもまるで効かない。
心臓が喉の奥からせり上がってくるように激しく打ちはじめ、立っていられなくなるのだ。
景色がくにゃりと歪んで破れ、そこから禍々しい何かが漏れ出してくるような錯覚に襲われる。
情けない。
人並みな普通のこともできないなんて。
自意識過剰。
大人なんだから、もっとちゃんと、しっかりしなきゃ。
胸の内で自分を詰る。
目を開けると、ダイニングテーブルの下に体を滑り込ませ寝っ転がった七緒が、天井へ向かって伸ばした手をひらひらさせていた。
七緒は頭上で舞う自分の手に、吸い込まれるように濃密な視線を送る。
それはまるで極上の料理を味っているかのようなうっとりした顔だ。
七緒は一人で満たされている。
集団から離れてみてはっきりわかった。
七緒はまだ他の子のように相手を求めてはいない。
そしてそれは育て方のせいでも、七緒が悪いわけでもなく、ただ七緒は自然とそうなだけなのだ。
私が私であるように、七緒はただ七緒だっただけだ。
「七緒」
呼びかけても返事はない。
今、私は七緒の世界にはいない。
そのことをもう寂しいとか悲しいとか感じることはなかった。
あるがままの姿を見せてくれる七緒を愛しいと思う気持ちだけが、あぶくのように湧き上がる。
七緒の世界。
外の音を締め出して見る七緒は美しく、大切な存在だ。
そう感じられることが幸せだった。
夏休みに入ってからというもの、私たちは外へ出る習慣を失っていた。
七緒を連れて児童館へも、ショッピングモールへも、どこへも出ようとは思わなかった。
外へ出ることを七緒は欲しないし、私も出たくない。
私たちは互いに満足していた。
――これからもそうやって子供のことを見ないように目をつぶり、人の気持ちを平然と踏みつけながら、余裕の顔で明るい場所を歩いていけばいいわ――
千秋の言葉が頭に浮かぶ。
何の感情も浮かばない。
心は遠く、自分の気持ちなのに他人事みたいに思える。
七緒のことに目をつぶっていたつもりなんてなかった。
むしろ思いつく限り手を打ち、最善を尽くしてきたつもりでいた。
そのままの七緒では受け入れられないと思って、受け入れられたくて必死だった。
目の前の七緒を否定し、上手く育てられない私を否定した。
苦しい、嵐のような日々だった。
ダメな私が惨めで、七緒を人に受け入れられない子供にしてしまったことがひどい罪だと思えた。
そこにいる七緒そのものを見ようとしない私は、確かに盲目だったのだろう。
こうして戦ってきた私が、誰かの気持ちを踏みつけているなんて思ってもみなかった。
余裕なんて、持てたためしがなかった。
千秋の言葉は本当に私に向けられたものなのだろうか?
どうしたらよかったのだろうか?
千秋の言葉通り自分ではそうとは気付かないうちに、草の芽を踏みにじり小さな生き物を殺しながら歩くように誰かを傷つけているのだと思うと恐ろしかった。
言葉や仕草はやすやすと私の意図を超えて伝わる。
相手の受け取りが私の思いもよらぬものであっても、それによって相手が傷ついたならそれは私の責任だ。
相手に届くように気を使ってきたつもりでも、こうして私は間違って千秋を傷つけてきたのだ。
もう私には千秋に対し紡いでいける言葉がどこにもない。
沈黙。
本当にまっすぐ言葉や思いが相手に届くことなんかあるのだろうか。
真実はお互いに都合よく、思い違っているだけなんじゃないだろうか。
人は、遠いから。
鈍感で気遣うことができない私なのなら、誰の目にも映らなければいいのだ。
そうすれば私の中に潜んでいるであろう悪が、誰も傷つけないですむのだから。
私たちに理解なんて、必要ない。
不在でもないのに生協の注文表をビニールケースに入れ、玄関のドアノブにかける。
こうしておけば買い物にも出ることなくずっと部屋で過ごすことができる。
誰にも会わないで済む。
外へ出ることがなければ、私は安定していた。
誰も傷つけずに済むし、迷惑をかけることを恐れずに安心して私でいられる。
平和でいられる。
私が干渉しなければ大概七緒は穏やかだった。
思いつくがまま本を読んだり、テレビをつけ飽きもせず同じDVDを何十回もリピートしたりして夜になる。
一日中家から出ないことに七緒は文句一つ言わなかった。
あれから自傷していない。
私も七緒も何にも困っていない。
平穏な暮らし。
いつまでも永遠に閉じこもっているわけにはいかないのはどうしてだろう。
こうして初めて私たちは穏やかに満足していられるというのに。
それの何がいけないと言うのだろう。
きっと終わりがあるとわかっていたからだろう。
閉じこもったきりの私たちに誠司は薄々気づいていたのだろうけれど、咎めることも深く追求することもなかった。
私たち三人は澱の積もった水底で暮らしているようにひっそりと静かな時間を過ごしていた。
夏休みは、必ず終わるのだ。
私たちの穏やかな暮らしも、終わる。




