37 おかしい
37
七緒を寝かしつけていた誠司が、寝癖のついた頭を掻きながらリビングに戻ってきた。
「起きたんだ」
そのまま七緒と一緒に眠ってしまうものと思い込んで、油断していた。
入浴後、半袖のパジャマにエプロンをかけた格好で食器を洗っていた私は、慌てて蛇口をひねり水を止める。
おそらく誠司は私の左後ろにある冷蔵庫へビールを取りに来る。
そのタイミングでさりげなくタオルで腕を隠してしまおう。
青く膨れ上がっているのは肘から下だけ。
タオルを交換する要領でタオルかけからタオルを引き上げれば不自然じゃないはず。
内心でそうシミュレーションする。
思った通り誠司は私の後ろを通り、冷蔵庫に手をかけた。
私は首尾よくタオルで腕を覆う。
「夕子、今生理だっつってたけど先週もそう言ってなかった? なんかさ。……俺、避けられてる?」
「えっ」
誠司の言葉に頭が真っ白になる。
確かに私は先週生理を終えたばかりだった。
すっかり忘れていた。
私は一度それで誠司を拒んでいる。
誠司は冷蔵庫から取り出したビールを私に差し出した。
手を伸ばすわけにはいかない。
自然と頬が引きつって、それが誠司に伝わる。
誠司は差し出した手を引っ込めると、顔を背けため息をついた。
乱暴な動作でシンクにビールを置く。
「一緒に飲むのも嫌か」
違うの。
それは誤解。
「今だって、リビングに入ってきた俺をどんな顔で見てたか、わかってる? 怖いものでも見たみたいにさ。俺お前になんかやったか? 俺は鈍いからはっきり言ってくれないとわかんないんだけど、あれか。七緒のこと?」
「ごめん。誠司、私……」
誠司が不機嫌な声を出すと、すっと体温が下がるようだった。
頬にかかる髪をかきあげ、誠司を見上げる。
誠司は一時停止ボタンを押したように、目をまっすぐ一点に向けた。
「あっ」
誠司の視線の先にあるものが何かわかった瞬間、私は小さく叫び反射的に腕を背中の後ろへ回して隠した。
手にしていたタオルが足元へ落ちる。
そんなことをしたら、かえってごまかしがきかなくなるのに。
頭の中はなんと言い訳しようって、そればっかりだった。
「違うの、これは」
「……夕子。お前はやっぱり、頼らないんじゃなくて頼れないんだな」
誠司が私の二の腕を掴み、背中に隠した腕を引き抜く。
うっすら青く盛り上がった痣が誠司の目の前に晒される。
どうした、とは聞かなかった。
その痣と私の態度を見て、誠司は全てを察したようだった。
「よくもここまで……」
誠司が眉をひそめる。
自分の腕に噛みつくとき、私はそこにどうにもならない感情の全てを注いだ。
視力も聴力も時間感覚も失って忘我になるほど全部、全部、全部、全部、思いの限りをそこにぶつけた。
引きちぎれても構わない。
そんな獣じみた自分の姿が誠司の前に投げ出されたように思えて、いたたまれなさに身をよじる。
惨めで、醜い。
こんな奴は死んだ方がいい。
部屋の隅から死ね、という呟きが浮かび上がった。
ひそひそと囁くように部屋のあちらこちらでざわめきはじめる。
カーテンの隙間。
テレビの下。
あらゆる場所から湧き出して、次第に蝉のコーラスのように大きく重なって聞こえた。
それは霧雨のように降り注ぎ、私は天を仰いで……。
「おい、夕子? ……夕子!」
誠司の声が合唱を突き破り、パタリと音が消えた。
視線を落とした先で見た、誠司の怪訝な顔。
……誠司の目に私はどう映っている?
「俺はそんなに頼りないかな。信じるに値しない?」
反射的に首を振る。
小刻みに、震えるように。
「なら、黙って一人で、こんな風に自分を傷つけてしまうのはどうして」
私の手を取る誠司の指が震えている。
いや、震えているのは私の方だ。
「誠司のせいじゃない。私がおかしいから。こんなこと、もうしないから」
そうだ私がおかしい。
こんなことして普通じゃない。
誠司の目に映る私を見て、初めて外から自分が見えた。
今までどうして気がつかなかったんだろう。
私がおかしいってことに。




