36 わたしは
36
アパートの部屋に足を踏み入れると、急激に体が重くなった気がした。
部屋の奥からかけたままだった換気扇の音が聞こえる。
七緒は靴を脱ぎ捨てると小走りでリビングに向かい、ソファーに飛び込んだ。
そのままお気に入りの金魚の形をしたクッションを抱きしめ、感触を確かめている。
「疲れたね」
声をかけるも返事はない。
私の言葉はどこにもたどり着かず掻き消える。
部屋には二人しかいないのに。
そばにいても私たちは一人と、一人だ。
ダイニングチェアに腰を下ろすと自然とため息が漏れた。
あれから私は逃げるように療育センターを後にした。
七緒が黒ひげを出すように迫った時点で、もう退室の時間まで何分もなかった。
時間を理由に心理士が七緒の欲求を拒むと、七緒はその答えが耳に入っていないかのように、黒ひげはどこにあるのかと重ねて尋ねた。
心理士はさっきと同じ言葉を唱え、七緒の欲求を拒む。
それでも鍵付きロッカーだったかな、と七緒は憶測をつぶやき心理士の手を引いて強引に押し切ろうとした。
七緒の姿にカッと頭に血がのぼった。
まだ頼りない七緒の腕をひっつかみ、体を揺さぶる。
「人の言葉を無視するなんて、バカにするにもほどあるでしょう。相手は人で、人にはそれぞれちゃんと気持ちがあるの。それなのにあなたは相手の都合も考えず無理やり割り込んできて、自分のことばっかり話す。返事も聞かない。いい加減わかりなさい。相手はあなたの自由になる便利なロボットじゃないのよ」
噛み付かんばかりの勢いでまくし立てた。
息が上がっているのがわかる。
相手の顔も見ず、返答をなかったことにし押し通そうとする七緒が許せなかった。
それなのに七緒は澄んだ泉のような二つの目で、不思議そうにこちらを見上げていた。
そこにはちゃんと私が映って見えるのに、私の言葉は思いは七緒には届かない。
私は、無力だ。
心理士が私の肩に触れて、ようやく七緒の腕から手を離した。
そんなムキになるようなことじゃなかった。
だけど私には耐えられなかったのだ。
七緒の目に人が映らないということが。
心理士は近いうちにもう一度来られませんか、と手帳を開いた。
手帳を掠め見ると、夏休み中も心理士の療育の予定はびっしりだ。
今も下の待合室で次の子供が待っているはずだ。
心理指導の枠ではなく空き時間に相談だけでもと勧めてくれたが、今は夏休みで七緒は一日中家にいるから一人でなんか来られない。
連れて出たら七緒は心理士の顔を見て遊んでもらえるものと思い込み、始終割り込んでくるにちがいない。
落ち着いて話なんかさせてもらえないだろう。
だいたい何を話していいかもわからない。
そんなことで心理士の貴重な空き時間を奪うのは申し訳なかった。
結局相談を断り、普段通りひと月後に次回の予約を入れると、心理士と目も合わさずただただ頭を下げて部屋を後にした。
心理士の目に映る私の姿を思うと惨めで仕方がなかった。
ヒステリックでみっともないダメな私を。
受け入れてもらうために七緒ちゃんは懸命な努力をしています――
心理士の言葉が浮かんで、ダイニングテーブルに肘をつき頭を抱えた。
どうしてあの時心理士の話に過去の自分の姿を重ねたりしてしまったのだろう。
私と七緒は全く違うのに。
私には七緒の努力の跡など見えてこない。
周りのことなど気にもかけず、自由奔放に振舞っているようにしか思えない。
目が悪いわけでも、耳が聞こえないわけでもないのに、どうして目の前の状況が把握できないことがあるのか。
様子をよく見ていればわかるではないか。
もっとちゃんと見て。
人に興味を持って、見て。
そうして私も小さい頃から努力してきたの。
周囲に溶け込むために、同じになるために、受け入れてもらうために、いつも周りを見て気を配ってきた。
なのに……。
七緒のせいで家も外もめちゃくちゃだ。
頬を静かに涙が伝う。
私の中に収まりきれない怒りが渦巻いていた。
あの子の努力が足りないんだ。
私がもっと頑張らせなきゃいけないんだ。
もっと。
そうじゃないと社会は七緒を認めてくれない。
仲間に入れてもらえない。
なのに、心理士は七緒は十分努力している、だなんて……もうどうすればいいかわからない。
どうすれば。
なにをしてあげればいいのか、私には……。
七緒の母親が私でなければ、もっと上手く……そんな思いが消えない。
……こんなダメなお母さんでごめんなさい。
涙を拭う自分の腕をぎゅっと強く噛みしめる。
子供の頃していたように、青く痼り腫れ上がるくらいに何度も。
私はここにいる。
ちゃんといる。
脈打つような痛みがそれを教えてくれる。
たとえ我が子の目に映ることすらない私でも……。
誠司が七緒を風呂に入れている間に、台所で夕飯の支度をする。
野菜屑でかき揚げを作ろう。
天ぷら鍋を火にかけ、換気扇を回す。
風呂からの湿気で台所はむしむししている。
少しだけカーディガンの袖を折ってまくり、額の汗を拭った。
「暑いなら脱げばいいのに」
風呂から出た誠司が私の姿に首を傾げる。
「うん。でも、もう終わるから」
流れ落ちる汗を拭いながら振り返り、笑みを浮かべた。
誠司は真顔でこちらを覗き込む。
なんとなく居心地が悪くなって、さりげなくカーディガンの袖を下ろした。
「それ、日焼け対策用に買ったやつだろ。部屋で着るもんじゃないじゃん」
誠司は七緒を抱き上げた。
七緒の髪からはまだ雫がぽたりぽたりと垂れている。
「冷房対策にだっていいのよ……そんなことより、七緒の髪。もうちょっとちゃんと拭いて、ドライヤーもかけてやってよ。風邪引いちゃう」
私は慌てて話題をそらした。
腕を見られたくない。
この間自傷していることを誠司に告白し受け止めてもらったばかりだというのに、それでもまだ続けているのだと知られるのは怖かった。
失望されたくなかった。
困らせて、母親のくせに情けないと見捨てられたら、もうどこへも行けない。
「頭寒足熱ってな。頭が濡れてるくらいで風邪なんかひくかよ。自然乾燥。自然乾燥」
誠司があっけらかんと笑う。
そんな風に笑っていてほしかった。
私のことなんかで心乱されずに。
「もう! せめてパジャマが濡れないようにして。ご飯が炊けるまで、まだ時間があるんだから」
「……だってよ。拭きますか」
誠司は腕に抱えた七緒に顔を近づける。
七緒はきゃっと笑って、小さな手で誠司の頬を掴んだ。
仲睦まじい二人の姿にほっと息を吐く。
鈍感な誠司は、きっとカーディガンの袖の下にある痣になど気付きやしない。
もう自分で自分を傷つけるようなことはやめよう。
本当に最後にする。
だから……。
「明日さ、プール行こうぜ。夏休みに入って退屈してるだろ」
「プール!!」
誠司の言葉に七緒がはしゃいだ声を上げた。




