35 どうしたら普通になることができますか
35
いつも通り心理士は心理指導の後に相談時間をとった。
七緒ももう慣れたもので自分から部屋の隅に置かれたトランポリンへと向かい、一人遊びを始める。
「七緒は、どうしたら普通になることができますか」
私は正面に腰掛けた心理士に尋ねる。
「普通、ですか……七緒ちゃんは今、とっても普通に私とゲームを楽しんでいたと思うのですが」
あまりに漠然とした質問だったからだろうか。
心理士は苦笑を浮かべた。
七緒が普通ならこんなところになど通ってはいない。
わかっているくせに、と心理士の笑顔に苛立ちを覚える。
心理士と七緒はいつも一対一だから、七緒の本当の困りごとなんて心理士には見えていないんじゃないだろうか。
だから最初から小集団のプログラムを望んでいたのに。
「集団では全然普通にやれてはいないんですよ。先日七夕会……音楽会のようなものがあったのですが、七緒はステージで突っ立ってるのが精一杯で、ほとんど参加しているとは言えない状態でした。周りの子の様子を見て同じように動くことができないんです。この間まで時間中教室にいることもできなかったんですから」
七夕会の話をすると自然と気持ちが高ぶった。
情けなくて涙が滲みそうになる。
「そうですか」
「能力がないわけじゃないんです。歌だって好きですし、教室にいてちゃんと練習さえ積めればピアニカだってできるようになると思うんです。作業療法士さんにもできることがどんどん増えているって褒めてもらえましたし、頑張ればできるはずなのに……歯痒いんです」
心理士のあっさりとした相槌に突き放されたような気持ちになり、思わずムキになって言い募る。
そう。
私は歯痒いのだ。
小さい頃の七緒は変わっていると感じることはあったけれど、能力の高い子供だと思っていた。
ステージで何もできずに突っ立っている七緒を思い出すと、悔しくてたまらなくなる。
本当はできるのに、やれるくせに。
まるで何もわかっちゃいないみたいに空っぽな顔して。
そんなふうだから人に陥れられる。
からかっても、騙してもいいと思われる。
軽く見られてしまうんだ。
「お母さんは七緒ちゃんが集団の中で能力を発揮しないことを、歯痒く感じていらっしゃるのですね。確かに七緒ちゃんは努力家ですし適切な環境と指導があれば、技術的にはそれなりに出来るようになるでしょう。ただ、幼稚園という枠の中で七緒ちゃんはもう十分頑張っているんじゃないでしょうか」
心理士は話しながらカルテを広げ、私の話をメモにとる。
「頑張っている? 七緒は何もしようとしていないんですよ。七緒よりずっと重い障害の子だってもっと意欲的です。なのに七緒は無理やりステージにつれてこられたような覇気のない顔をして、ぼんやり突っ立っているだけなんですから。能力はあるのに。ちゃんとできるはずなのに」
観客を前にした子供達は皆磨き上げられた宝石のよう。
親たちの視線をライトに、私を見てと顔を上げ気を張ったり、時におどけたり、うつむき怖じたりとステージからキラキラとそれぞれ気持ちの光を返し応える。
そこに失敗も成功もない。
ステージで視線を浴びていることを意識して振舞う、愛らしい姿を余さず魅せてくれる。
なのに七緒は磨りガラスのように無表情で私の視線をただあちらへ透かしてしまう。
何が起きているのか、どこに立っているのかすらもわかっていないような、ぼんやりした顔で。
どうして発揮して見せてくれないの。
出来るくせに、わかるくせに。
私も誠司もじぃじや詩音たちもみんな、客席からあなたに視線を送っているのに。
何も返ってこないのは虚しい。
……寂しい。
「七緒ちゃんの障害はまさにその部分、社会性の障害なんですよ。変な例えに聞こえるかもしれませんが、七緒ちゃんにとって集団活動は、ニワトリ小屋に放り込まれるようなものなのかもしれません。苦手な音や感触の渦につつき回された挙句、こうするのが当たり前で楽しいことなのよ、と感覚を押し付けられる。とんでもなくうるさいし、痛いし、楽しさも意味も、置かれた状況すらもわからなくてとまどうばかり。でも他の人にとってはそれはなんてことないようなのです。そんな毎日。誰だって教室を飛び出したくなったり、机の下にでも隠れたくなるでしょう? 七緒ちゃんはそれでも黙ってステージに立ってくれたんです。素晴らしい頑張りじゃありませんか」
「素晴らしい頑張り……」
心理士の言葉に、何故か幼い頃の自分の姿を思い浮かべていた。
ザラザラとした不安な日常が、手触りを持って蘇る。
何が楽しいのかわからないのに薄ら笑いを浮かべ、手を引かれる。
心理士の話の中にいるのは、幼い私の姿そのものだった。
「ええ。すごく頑張っているんです。自分の他に誰もそんな葛藤を抱えていそうな人は見当たりません。みんなそれが普通だって顔をして、いえ、そんなことなど意識にもあげることなく、楽しそうに繋がって見えるんです。自分だけがその感覚を共有していない。おなじように振舞ってもやっぱりひとりぼっちです。それでも受け入れてもらうために七緒ちゃんは懸命な努力をしています」
そう、受け入れてもらうために私は努力した。
強烈にひとりぼっちだったからだ。
皆が楽しいと思っていることが同じようには感じられず、自分だけが見えない膜の外側に放り出されているみたいだった。
こうするのが当たり前で楽しいことだと心で唱え友達の手を取っても、やっぱり膜を感じた。
本当はわからないからだ。
そんなこと知りもしない友達は私も当たり前に楽しいものだと疑いもせず、手を取ると微笑んでくれる。
だから私は私の感覚を塗りつぶして同じなふり、楽しいふりをしてきたんだ。
私の感覚はおかしくて間違っているから、自分では正解を選ぶことができない。
そう確信を深くし、私は私を手放した。
何が正解なのか、先生や両親、千秋など友達の中に探した。
普通でありたい。
一員でいたい。
私もみんなと同じよ。
だから私を受け入れて。
そう願い、感覚を上書きする。
素晴らしい頑張りで、私は……。
「受け入れてもらうために、自分を消すんですか」
そうしないと七緒は普通になんかなれない。
固く凍った胸の芯が軋む。
「ん? そんな極端な話ではありませんよ、お母さん。七緒ちゃんはもう十分……」
「そんなに器用じゃないんです!」
気がつくと叫んでいた。
これ以上、私に侵入しないで。
私は、と言葉を続けかけてハッとする。
これは私の話ではない。
七緒の話だ。
私と七緒が、揺れて重なる。
どうして、私は私のことだと思ってしまったんだろう。
「お母さん、何かお困りなんじゃないですか……」
「先生! この間出してくれた黒ひげのおもちゃは?」
心理士の言葉を遮りひょいと勢いよく飛び込むように、私たちの間に七緒が身を滑り込ませた。




