33 ありのままでは
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七緒を連れてバス停からアパートに戻り、靴を脱ごうとしたところで家の電話の音がした。
家の電話など滅多に鳴らない。
友人や親戚、誠司なら大概携帯にかけてくる。
家の電話にかけるのは園くらいのものだ。
慌てて靴を脱ぎ捨て、子機を手にする。
受話器から聞こえてきたのは、予想通り優里香先生の声だった。
「七緒ちゃんあれからお家でどうですか? 七緒ちゃんには、行事も終わったしそろそろ年長さんに向けて教室で過ごせるようにがんばってみようかと促しています。今のところほとんど部屋から出ることなく過ごせてはいますが、お家でもお変わりないですか?」
七夕会の後園は保護者の目も考えて、できるだけ七緒を教室から出さないように指導方針を転換していた。
よく考えたら小学校に上がってまで自由にしているわけにはいかないのだし、最初からそうして貰えば良かった。
「ええ。変わりなく過ごしています」
七緒は家でも穏やかで別段荒れた様子はなかった。
しかし問いかけられて改めて思い返すと、七緒は園の話をほとんどしなくなっていた。
これまでも話していたことといったら、水槽や腐葉土のことなど森さんの仕事を見学したことばかりだったのだ。
外へ出なくなって、話したいほど興味をそそる出来事がなくなってしまったのだろう。
お友達とこんなことして楽しかった。
あんなことされて辛かった。
誰かがこんなことをしていて面白かった。
同じバス停を使っている女の子がバスを降りるなりママに向かって話し出す、園でのできごとやお友達の話のようなものは、七緒の口からは出てこない。
どんなことがあったのかと尋ねても、わからないと返ってくるだけだ。
「実はですね、今日お知らせしていた通りクラスで公園へ出たのですが、みんなが園を出る前に七緒ちゃんが一人で脱走してしまったんです」
「脱走?」
思わぬ言葉に胸が跳ねた。
「脱走という言葉はちょっと違うんですけれど……靴を履き替えて園庭に並ぶと指示したはずなのに、七緒ちゃんは靴を履くと園庭には来ずにそのまま門を飛び出してしまったんですね。その時ちょうど業者さんが夏休みに行う園の修繕のため下見にきていて、門が開いていたんです。それを見て七緒ちゃんはもうみんな行ってしまったと思いこんで、外へ飛び出してしまったみたいなんです。幸い業者の対応のために門の外へ出ていた用務員さんがすぐに七緒ちゃんを見つけて連れ戻したのですが……管理が行き届かず、申し訳ありませんでした」
何事もなかったとはいえ、そのことは子供達の口からママ達に伝わっているだろう。
あの変な子がまた。
そんな風に捉えた子供達の口からこの出来事がどんな風に語られるのか、考えるだけでゾッとした。
そしてこのことについて、七緒は何も話してはこない。
電話がなければ、また知らないのは私だけだったかもしれない。
「本当に面倒ばかり……すみません」
「いいえ、とんでもない。これは園の落ち度です。事故に繋がらなくて良かった。七緒ちゃんは賢いのでわかっていると思い込んでいて……フォローが足りませんでした。本当に申し訳ありませんでした」
電話が切れると、一気に体が重くなった。
私が電話をしている間、七緒は服も鞄もそのままで窓ガラスに頬を貼り付けるようにして外を眺めていた。
「公園は、楽しかった?」
試すように尋ねる。
七緒はうん、と返事をしたきりで、こちらのことなど見向きもせずに一心不乱に窓の外を眺めている。
外に夢中になる程珍しいものがあるようにも思われない。
一体何を見ているのだろう。
私との話より大切なものなのだろうか。
「みんなで並んで外へ出るの、初めてだったんじゃない?」
ハッとした七緒の口から、脱走の話が飛び出せばいい。
誘導してやれば自分から話し出すのではないか。
そう期待したけれど、それにも七緒は窓の外を見ながらうん、と返事をするだけで終わった。
「どうして一人で門を出たの?」
私をちっとも見ようとしないことに焦り、七緒の腕を掴み注意を引く。
「ちゃんと顔を見て話しなさい。目を見て」
石のように硬く強い声色に自分で驚いた。
そんな風に詰め寄ってさえ、七緒は窓の外へと視線をそらせた。
「こっちを見なさい!」
苛立ちが募り、七緒の頬を掴み無理やりこちらへ向かせた。
オセロの石のような丸い目が不思議そうに私を見上げる。
「周りの様子を見て動きなさいっていっつも言ってるじゃない。みんなと同じことをしていればいいの。余計なことは考えなくていい。ただついていけばいいだけなのよ。それくらいできるでしょう? どうして勝手に思い込んで一人で外に出たの?」
七緒は私の問いかけに眉を寄せた。
「思い込みじゃない。みんなもう出たって聞いたんだ。だから門が開いてる、急げって押されたから……」
その話に頭が真っ白になった。
それは、まるきり七夕会の事件の模倣ではないか。
純粋な悪意。
からかい。
七緒はどうしてそれがわからない?
滑らかに説明していながら、相手の言うことがおかしいと何故気がつかない。
こんなに口が達者なくせに、何もかもわかったような顔をしているくせに、簡単に騙されて。
「ばかっ。だったらどうしてちゃんとその場で先生にそう言わないの!」
七緒の頬を思い切りひねり上げた。
悪いのは七緒じゃない。
わかっていても止められなかった。
「痛い!」
抗議の声を挙げ唇を噛む七緒の賢げな瞳が、私を逆上させる。
七緒には私の気持ちがわからない。
「あんたは何も考えなくていい、周りと同じようにしてるだけでいいの。普通にしてくれたらそれでいいの。考えたってどうせそんなの全部間違いなんだから。何にもわかってないんだから。……お願いだから普通にしてよ!」
相手がどういうつもりかも読み取れないで、やすやすと言葉通りに乗ってしまう七緒を助けられる人なんてどこにもいない。
七緒自身をなんとかしなければ。
千秋の言う通り、私がもっとしっかり指導して、この世界に合うように七緒を変えてやらなきゃいけなかったのだ。
あんなによくしてくれる園なのに、それでも馴染めないのはおかしい。
このままの七緒ではどこにも適応できない。
私は焦った。
七緒に普通をわからせる以外、何もしてやれることはない。
そう思った。




