32 こんなことになるなんて
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最初に私を見つめてきたのは、怯えたような目をした香澄ちゃんだった。
吸い付くように私の顔を覗き込んだままギュッと身を硬くしている。
真正面から歩いてきた私に、千秋が気付かないはずはなかった。
なのに千秋はまっすぐ顔を上げたまま、ちらりともこちらに目を走らせることなく、素知らぬ顔して通り過ぎていく。
「千秋」
すれ違いざまに声をかけると、千秋は気怠そうに振り返った。
「こんにちは」
微笑んではいるもののどこか棘を感じる。
なぜ千秋がそんな目で私を見るのか、頭の中をどう巡らせてもわからなかった。
「ごめん、急いでた?」
千秋の不機嫌そうな表情を見て、反射的に頭を下げる。
私がちらりと目を向けると、さっきまでピタリとこちらを向いていた香澄ちゃんが逃げるように顔を背けた。
なぜ香澄ちゃんがここにいるのだろう。
今日は登園日のはずだ。
風邪でも引いているのだろうか。
「別に、急いでないわ。息抜きに出たところ。夕子は買い物?」
千秋ははっと音を立ててため息をつき、尋ねた
「うん……」
千秋と向き合うと、急に怖くなった。
何を話せばいいかわからなくて誤魔化すように微笑む。
気難しい相手に迎合するように。
敵意がないことを示すように。
もう七夕会のことなど何も気にしていないとでも言わんばかりに。
本当は七夕会の時本当は何が起きたのか、香澄ちゃんがどういうつもりだったのか、今何を思っているのか把握しておきたかった。
その上でちゃんと伝えるべきことを伝えて、私は七緒を守らなくちゃいけない。
そう思っているのに私は相手と向き合うのを避け、最初から何歩も引いてしまっていた。
友梨ちゃんママからの電話の時もそうだ。
肝心なことには何一つ踏み込めなかった。
「あいかわらず、余裕なのね」
千秋が顔を歪めて笑う。
「どうして、余裕なんて……」
余裕。
今の私からそれほどかけ離れた言葉はない。
見つめ返す目が泳ぐ。
「チラチラ見て。香澄の事が気になるなら、聞けばいいじゃない。なんでこんなところにいるの? 幼稚園はどうしたのって。……聞くまでもないか。自分の子供をいじめた相手なんて、どうだっていいものね」
「そんなこと……」
千秋の言葉に、カートに座る香澄ちゃんはうつむきモジモジと身を揺すった。
かわいそうに、ひどく居心地が悪いのだろう。
「また不安げな顔して……夕子はいつもそう。そのくせいつも人の上を行くの。大学だって、教師になったのだってそうでしょう。それは元々私の夢だったのに。後から真似して、なのに人の目の前で軽々と叶えて見せつけて、そのくせ簡単に手放したのよね。……バカにしてる」
唐突な非難に絶句した。
今更受験の話が出てくるなんて、千秋は一体何の話をしているのだろう。
確かに千秋の言う通り教師は元々千秋の夢だった。
千秋は私も教育学部目指そうかなって言ったら、一緒に頑張ろう、俄然やる気が出たって手を取って喜んでくれた。
結局私だけが受かって気まずい気持ちでいた時も、千秋の方から手を差し伸べておめでとうって笑ってくれた。
七緒と向き合うために仕事を辞めたって話した時だって、親身になって今の園を紹介してくれた。
まさか千秋がそんな風に感じていたなんて……。
「それでも、夕子が困ってると思ったから園を紹介して、香澄にも頑張らせてきたんじゃない。それなのに、夕子は七緒ちゃんがどれだけ香澄に負担を強いたかなんて知ろうともしないで、私たちを一方的に悪者にした。自分の子供のしたことは棚に上げて被害者面してさ。夕子なんか先生のくせに、子供にわがまま放題させて……どう考えてもおかしいのは七緒ちゃんでしょう? わかってるよね?」
千秋は沈黙している私をいらだたしそうに睨み付けると、一気にまくし立てた。
何か言わなきゃと、焦れば焦るほど言葉に詰まる。
千秋はそんな私を見下ろし、両手を腰に当てると大きくため息をついた。
「七夕会のことだって、香澄は一言だって認めてないの。なのに先生が夕子の親戚の子供の言うことを鵜呑みにして誘導するから、今じゃクラスで香澄は黒幕扱い。もう怖くて園にいけないって香澄は毎朝震えて、泣いて……。ねえ、なんで私たちの方が園から追い出されなきゃいけないの?」
千秋の言葉は全くの言いがかりだった。
莉音ははっきり香澄ちゃんが押すのを見たと言った。
それに愛羅ちゃんだってそれを見てやめなよって止めようとしたから、友梨ちゃんに突き飛ばされたのだ。
きっと愛羅ちゃんの他にも見ていた子が何人かいたはずだ。
もう事実は覆らない。
香澄ちゃん自身も、千秋に向かってごめんなさいってむせび泣いていたじゃないか。
それでも七夕会の事件によって香澄ちゃんが園に通えなくなってしまった、ということが私に重くのしかかった。
「どうしたら……」
「どうしたらって……」
千秋は私のつぶやきを拾って鼻で笑った。
「早々にバス通園に切り替えて、自分の子が園でどんな様子か見ようともしなかったくせに。今更だわ。七緒ちゃんのことを園に丸投げして、口ばっかり。どうするつもりもないじゃない。これからもそうやって子供のことを見ないように目をつぶり、人の気持ちを平然と踏みつけながら、余裕の顔で明るい場所を歩いていけばいいわ」
千秋はさっと顔を背けそのままカートを押して行ってしまった。




