30 そんなことで
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どう切り出そうか思案するように、優里香先生は右上に視線を走らせしばらく黙り込んだ。
それからゆっくりと口を開く。
「昨日のことです。私は夕方教室のロッカーに入れてあった衣装を確認していました。そこで普通なら絶対にあるはずのないものが、ある男の子のロッカーから発見されたんです。水槽の中に飾ってあるオブジェなんですけれど……七緒ちゃんから聞いたことありませんか?」
誠司の顔に目を向けると首を横に振った。
「水槽のポンプの話ならしていたよね」
「ああ。でもオブジェのことは聞いたことがないな」
誠司は腕を組み口元に手を当てる。
「そうですか。オブジェは、毎年用務員さんが時期に合わせて手作りしているんです。なので同じものは二つとありません。それがここにあるということは……」
優里香先生は眉を寄せた険しい表情を浮かべる
「そのオブジェと、七緒の乱暴に関係が?」
「ええ。今日は七夕会のステージがあるので、それが終わってからと思い、まだ本人と話ができていないのですが……おそらく関わりがあると思います」
私の問いに優里香先生はぎゅっと下唇を噛み締めた。
「ひと月くらい前だと思います。水槽のポンプが熱を持っている、このままでは危ない、ということで珍しく用務員さんが登園時間帯にポンプの修理をしていたことがあったんです。七緒ちゃんは用務員さんの仕事を見るのが大好きで、ずっと水槽のそばで見ていたんですね。用務員さんは工具を取りに職員室に戻ったり、ポンプに溜まった水を切りに足洗い場へ出たりと慌ただしくしていました。ポンプの修理を終えて、水槽の中に岩やオブジェを戻そうとした時、用務員さんはオブジェがなくなっていることに気がつきました。七緒ちゃんに尋ねると、誰かわからないが男の子が持って行ってしまった、返してと言ったけど返してくれなかったと答えたそうです。でも七緒ちゃんはまだクラスメイトの顔をよく覚えていなかったので、誰なのかわからずじまいになってしまいました。結局オブジェは見つからず、用務員さんが同じものを作り直してくださったのです」
「つまり返して、というやりとりが叩いているように見えたということでしょうか」
オブジェをめぐるやりとりのことなんか、七緒は一言も話さなかった。
話していたのはポンプのこと。
それだけだ。
「かもしれません。もしかしたらその時のやりとりに外から見るとちょっと強引なところがあったのかもしれませんね。追いかけたりしたのだとすると、周りが見えていない七緒ちゃんの動きは危なっかしく映りますし。保護者の方に止められたのだとしたら、きっとそのやりとりの時じゃないかと思います」
「なるほど。それなら簡単に想像がつきます」
誠司が深く頷く。
七緒は正しいことが好きだ。
誰かがオブジェを持って行ったならそのままにしているわけがあるまい。
「まだ想像の域を出ませんが……七緒ちゃんの行動だけが保護者さんの目に映り、乱暴だって噂になってしまったんでしょうか。全然そんなことないのに」
優里香先生が目を伏せる。
「でも先生、噂はそれだけじゃないんです。七緒が園を囲むフェンスの隙間から脱走したとか、階段から年長の女の子を突き落としていたとか、お友達の頭に砂をかけていたとか。……友梨ちゃんとのトラブルのこともみんな知っています。教えてくださった方は直接見たわけじゃないけど噂が流れてる、先生から何も聞いてないのかと心配していました。これほど噂を聞かされると、私も七緒が人を困らせてばかりいるんじゃないかと心配になります」
話していると門の前で子供が出てくるのを待っていた時のママ達の非難の目が浮かんだ。
思わずぞっと身ををすくめる。
「そんなに噂が……? 確かに一部事実であるものもありますが……。でも、そのほとんどがおっしゃるようなひどいことではありません」
優里香先生は唇を噛み眉間にしわを寄せた。
「フェンスの件ですが、これはある子がいたずらでフェンスの向こうに帽子を投げ入れて、七緒ちゃんに取りに行かせたんです。目立つ行動ですからね。一時騒然となったのは確かです。でも七緒ちゃんは帽子を拾うとすぐに戻ってきました。それに本当に悪いのはいたずらをした側です。いたずらをした子はすぐに反省して謝りました。七緒ちゃんが悪いわけじゃないですし、私がそれほど大きな事件だとは捉えていなかったので深町さんにはお伝えしませんでしたが、まさかそんな風に噂になっているなんて……。もしかしたら見ていた子たちは、事情がよくわからないまま七緒ちゃんの脱走のことだけをお家でお話したのかもしれませんね」
優里香先生は、ますます苦々しく口を歪め口元に手を当てる。
「階段から突き落としたという話は何でしょうね。年長さんでも確認してみますがそんな話は聞いたことがありません。誰も怪我なんてしていないんです。送迎していた保護者の方にはそう見えた、というようなことでもあったのでしょうか。それから砂場の件ですが、確かにそんなことはありましたが、相手の子が気付かないくらい些細なことだったんですよ。七緒ちゃんが泥だんごを夢中になって作っていた子の帽子の上に、何を思ったのかひとつまみの塩を入れるようにパラパラってかけようとしたんです。私が発見したので、ほとんど未遂の状態でやめさせました。相手に謝ってもいます。本当にお知らせするようなことでもなんでもなかったんです」
「じゃあ、どうして……」
今回の友梨ちゃんの件と同じように、園では解決したと思っていたことが、家に帰るまでの間に子供の中でそして親の中で覆っている。
事実ではない噂。
なぜ……。
「確かにこの頃、クラスで何かあったらまず七緒ちゃんじゃないかと言われることが増えているなとは感じていました。その度にきちんと事実を確認して打ち消してきたつもりでしたが……子供達の目にはそんな風に写っていたんですね」
青ざめた顔の優里香先生が口を歪める。
「子供が家で単なる話題として目立つ七緒の行動を話し、聞いた親が心配する。情報交換と称してそれを噂し、話が大きくなる。そして親の見る目や不安を子供達が感じ取って、どんどん七緒に注目する。そういう悪循環が出来上がっているんでしょうね」
目を泳がせる優里香先生に、誠司が冷たい口調で追い討ちをかける。
「朝の時間は、保護者の方も送迎で園に入って子供達の様子を見ていますものね。役員さんなんかだと、一人で園庭にいる姿や危なっかしい動きをするところも目にしていたでしょう。私は子供の方ばかりを見て、ちゃんとわかってくれてるだろうと安心していました。保護者さんに対する配慮が足りなかった……」
そんなことで?
本当にそんなことで……と頭がぐちゃぐちゃになる。
友梨ちゃんの頑なさ、それからわけも言わずあっさり謝る姿が浮かんだ。
理由なんかきっと、どこにもない。
強いて言えば理由は、七緒だから。
それだけなんだ。
「まだ帰らないの?」
七緒は本を読み終え退屈になったのか、私たちのもとに寄ってきた。




