28 ヴァルネラビリティ
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沈黙を破ったのはひっそりと囁かれた、からかいだなんて大げさよね、という一言だった。
誠司から直接非難されたに等しいママたちは、その一言に飛びついた。
表立って大きな声をあげる人は一人もいなかった。
木立の葉が擦り合う音のような、ひそやかなざわめき。
そのどれもが私たちは悪くないわ、と言っているように思えた。
誠司はその様子を口を一文字に結び、ぎゅっと拳を握り締めて眺めている。
「たいへんおまたせしました」
優里香先生が教室の後ろの扉を開いた。
さっきは静まり返っていた教室も支度を終え、扉の前で並ぶ子供たちの動きで賑やかしい。
「お名前をお呼びした方からお引き渡しいたしますね。……佐々木さん」
呼ばれたママが駆け寄り、一言二言先生と話をして帰っていく。
最初はすんなりだった引き渡しが、後になるにつれ滞り始める。
おそらく事件に関わりのなかった子供から順番に引き渡していたのだろう。
だとすれば、七緒が呼ばれるのはおそらく最後だ。
千秋が呼び出された時には、廊下にはもう私たちと友梨ちゃんママしか残っていなかった。
香澄ちゃんは手のひらで顔を覆ってしゃくりあげ、優里香先生に抱き上げられて出てきた。
「あんまり叱らないでやってくださいね」
千秋に引き渡そうと優里香先生が香澄ちゃんの脇に手を差し入れると、香澄ちゃんはイヤイヤをするように顔を振り優里香先生の首にすがりついた。
「以前からのお友達だと伺っていたので、香澄ちゃんには七緒ちゃんのことをお願いすることが多く、負担をかけてしまっていたかもしれません。しっかりしているからと無理させてしまいました」
香澄ちゃんの背中をトントンと優しく叩く優里香先生の言葉が、私の元にも届いた。
児童館で過ごしていた頃も、しっかり者の香澄ちゃんは大人たちから七緒ちゃんを誘ってやって、仲間に入れてやって、頼むわねと投げかけられてきた。
遊ぼうと声をかけるのにちっとも思い通りにならない七緒に、困惑していた香澄ちゃんの姿が浮かんだ。
愛羅ちゃんは同じような香澄ちゃんの投げかけですんなり仲間に入っていたのに、七緒は何かと抵抗した。
ちっとも思い通りになんかならない。
遊びの内容を合わせてやれば気持ちが通じあえる愛羅ちゃんとは違う、宇宙人みたいな七緒。
言葉が通じるはずなのに、わかっているはずなのに、はぐらかすように話があさっての方向へ行って会話にならない七緒。
香澄ちゃんはきっと途方に暮れただろう。
差し向けた気持ちが引き裂かれたことだって、あったのかもしれない。
私と、同じように。
「ごめんなさい」
涙に濡れた顔を優里香先生の胸から覗かせた香澄ちゃんはしゃくりあげながら千秋を見た。
私から背を向けた千秋は、どんな顔をしているのだろう。
床に降ろされた香澄ちゃんは静かにうなだれていた。
「千秋……」
千秋は乱暴に香澄ちゃんの手を引くとちらりともこちらを見ることなく、私の前を通り過ぎて行く。
手を引かれていく香澄ちゃんの涙に濡れた目が振り返り、じっと私を見上げていた。
次に呼ばれたのは友梨ちゃんではなく、七緒だった。
「すみません、その前に先生に確認したいことがあるのですが、いいですか? そちらにおられるお子さんに七緒が怪我をさせたかもしれない、という件なのですが」
優里香先生が口を開く前に、誠司が切り出した。
「七緒ちゃんが友梨ちゃんに、ですか? それは園での出来事なのでしょうか? 私が把握している限りではそのような話はないと思いますが……いつ頃のことでしょう」
優里香先生は首をかしげた。
「ええっ? 先生、この間先方には連絡しましたっておっしゃってたじゃないですか。どういうことですか?」
廊下で一人たたずんでいた友梨ちゃんママが聞きつけて駆け寄る。
「ああ、その件ですか。相手は七緒ちゃんではありませんよ? どうしてそう思われたのでしょう」
「そりゃ、友梨がそう言っていたからですよ。本人がそう言っているのに、間違いだなんてそんなこと……おかしいじゃないですか」
扉の向こうで友梨ちゃんが、ママから見えない場所へ逃れようとカーテンの後ろへと身を隠しているのが見える。
「いいえ。それは私が対応したので確かです。ごめんなさい。規則で相手がどの子がというのは園からは申し上げられません。ただ七緒ちゃんでないことは確かですよ。相手のお家には事情をお伝えして、長澤さんのお宅に連絡されてはと促したのですが、最終的に連絡するかどうかはご家庭の判断にお任せすることになるので……。電話きていないんですね。再度相手方に連絡してみますね」
「そんな……友梨っ! どういうことなの?」
友梨ちゃんママは優里香先生を押しのけて教室の扉をの縁を握り、中を覗き込んだ。
「あっ、長澤さん。落ち着いてください」
優里香先生が後を追う。
「その話はもういいの! もう全然痛くないから、大丈夫なの!」
友梨ちゃんがカーテンの中から叫ぶ。
「何言ってんの、ほんとに嘘だったってわけ? 信じられない。そんなの……全然大丈夫なんかじゃないわよ! 関係ない人巻き込んで、あんた一体どういうつもり? なんでそんな嘘をつくの。あんたを傷つけられたからママこんなに怒ってるんでしょ? 相手がいつまでも謝ってこないから毎日やきもきしたんじゃないの」
友梨ちゃんママはカーテンを力一杯引きあけて、友梨ちゃんを引きずり出す。
「あんた、ちゃんとこの人たちに謝りなさい。今日だって散々……信じられない! 何やってんの!」
「やだぁ! ママ、やめて」
両腕を引かれた友梨ちゃんは足を突っ張って抵抗する。
友梨ちゃんママは教室からずるずる友梨ちゃんを引きずり出し、体の前へ抱えると私の前へと押し出した。
「数々のご無礼、本当に、申し訳ありませんでした!!」
友梨ちゃんママは深々と頭を下げた。
「こら、あんたも、ちゃんと謝りなさい」
ママは友梨ちゃんの後頭部を無理やり押して頭を下げさせる。
「いやぁ! ママ! やめて!!」
「ちゃんと言い聞かせて二度とこのようなことがないようにいたしますので、どうかお許しください」
友梨ちゃんママが頭を下げるのに友梨ちゃんは頑なだった。
その頑なさは七緒への反発の表れなのだろうか。
「どうして、なの?」
私は友梨ちゃんの前にしゃがみ込んだ。
「七緒が、何かした?」
友梨ちゃんはふてくされたように頬を膨らませ、そっぽを向く。
「……ごめんなさい」
散々抵抗していた友梨ちゃんは、私の問いを打ち切ろうとするようにあっさりと頭を下げた。




