18 傷つくな
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自室から戻ってきた誠司は、黙ってタンポポ色の封筒を眼前に差し出した。
「これは……?」
「朝子さんから。タンポポ幼稚園の願書だよ。正月に親戚で集まったろ。あん時渡されたんだ。朝子さん、なんつったかな。ひかり幼稚園は進んでるけど、そのぶん意識高い系? なんだ、つまり教育ママが多いって言ってた。熱心な分、子供同士が馴染めなかったら、人間関係がきつくなるかもしれない。もしって時があったら夕子に渡してくれって」
「朝子から……?」
タンポポ色の封筒を持つ手に力がこもる。
「夕子が園のことで泣いているのを見て、こういうことかって思った。確かに集団生活って施設の理念より、いるメンバーとの相性だったりするだろ? 職場もそうだけどさ。やっぱ人なんだよ。そこのタンポポ園だと莉音や詩音がいるんだろ? あいつらはなんでか知らないが、七緒とやたら仲がいい。ウマが合うんだろうな。あいつらがそばにいたら、七緒が溶け込むのにいいつなぎになってくれるんじゃないか?」
「だけど……」
「朝子さんもそう言ってたんだ。力になりたいって」
誠司は真っ直ぐ私を見つめた。
七緒がプレに通い始めた秋頃、スーパーでばったり会った朝子にタンポポ幼稚園に来ればいいのにと誘われたことが浮かんだ。
きっと勢いで口にしただけ。
本気なんかじゃない。
社交辞令だ。
実際そうなると行事も一緒になるし、じぃじやばぁばに見比べられてきつい言葉を聞く機会が増える。
きっと嫌がるに決まってる。
そう思って候補にも上げなかった。
「嘘。同じ園なんて、朝子に嫌がられるとばっかり……」
「なんでそう思うんだ?」
私の言葉に誠司は首をかしげた。
なんで……何から言葉にしていいかわからなくて口ごもる。
誠司は黙り込んでしまった私を前に、難しい顔をしてため息をついた。
「実は、その封筒預かった時さ、一度突き返したんだ。俺じゃ園のこととかよくわかんないし、夕子と直接やりとりしてくれないかって。だってお前はすぐ隣の部屋にいて、子供らと遊んでたんだぜ? 実の姉妹なんだし、ましてや園のことなんかその方が絶対話が早いだろ? なのに朝子さん困った顔してさ、自分からじゃ夕子が嫌がると思うから、なんて言うんだ。おかしいだろ? お互い同じように相手が嫌がるって決めつけて、お前らはなんでそんなに気を使い合ってんだ? 本当はこんなに大事に想い合ってるのに」
私は朝子に疎まれてなんかいなかった?
なんでもよくできるんだから、もっと堂々としていればいいじゃない。
そう言って口を尖らせた若かりし頃の朝子の姿が浮かんだ。
私の存在は朝子を苦しめる。
私がいなければ……どうして私はそんな風に思い詰めてしまったんだろう。
どうして……
「わからない……」
「だからさ、朝子さんに嫌がられるなんて誤解だ。もうそんな風にごちゃごちゃ考えるな」
朝子を、頼っていいのだろうか。
ふと湧き起こった温かい気持ちに触れようとすると、すぐさま寒風のようにひゅっと不安が飛び込んでくる。
「……でも、私や七緒のせいで朝子達まで変な目で見られたら迷惑……」
「いい加減にしろよ!」
突然、誠司が怒鳴った。
猫のようにさっと身をすくめる。
手元から封筒が落ちてフローリングの床を滑る。
「……夕子お前本っ当にバカ。力になりたいって言ってんだ。朝子さんはそんなこと承知の上で提案してんだよ。迷惑くらいかけてやれよ!」
誠司が私の両腕を掴み、身を揺する。
痛いくらいの力にハッとし誠司の顔を覗き込む
「……頼ってもらえないことがどんなに情けないことか、お前にはわかんねーんだな……」
誠司は大きく息を吐き、目をそらした。
かける言葉が見つからなくて、ただ立ち尽くした。
怒鳴られ目をそらされると、すっかり呆れられてしまったような気がして泣きたくなった。
「ごめん」
「……駄目だ。全然わかってない」
誠司は鼻で笑い、口を歪めた。
眉間に険しく皺を寄せ、静かに頭を振る。
私の腕から誠司の手が離れる。
そのとたん突き放されたような不安で胸がいっぱいになった。
怖い。
このまま誠司に嫌われて、見捨てられてしまったらという恐怖があっという間に身体中に広がった。
どこもかしこも固まったように動かない。
誠司に私を見て欲しかった。
目を合わせて、安心させて欲しかった。
どうすればいいかわからなくて、途方にくれる。
「まあいい」
誠司が私を見た。
ひどく優しく映る。
呆れているのだろうか。
それはまるで誠司が七緒を見る時と同じ眼差し……。
「いいか、夕子。噂話なんていうのはな、単なる暇つぶしで、大した意味なんかないんだ。七緒みたいな変わり者の噂だって話の取っ掛かりでしかない。相手の話に合わせて頷いているだけで本当はそんなこと、みんなどーだっていいと思ってる。だからそんなもんいちいち真に受ける必要はないんだ」
「でも、私怖くて……」
「だから、お前にとってそんくらい大きなもんだとしても、相手にとったら所詮暇つぶし程度の些細なことなんだよ。思い出してみろよ。お前の母親だってそうだったろ? 単に話の種に子供や孫のことを口にしたいだけ。なんというつもりもないのに比較すんのが癖になってて、そこには悪気も他意もない。それと大した違いなんかないんだ。気にするだけ損じゃないか」
ただの口癖。
単なる話の取っ掛かり。
確かに母が私と朝子を比較するのは、私たちを叱りつけようとした時でもなんでもなかった。
ただ嫌な気持ちを比較という形で表し口にしていただけだ。
孫たちを比較していろいろ言ってくる時だって同じ。
ただ誰かに向かって愚痴を言ったり、自慢をしたり、話のネタにしていただけ。
「そんなもの……?」
頭の中は、ひどく混乱していた。
私が朝子に抱いてきたものはその程度のものだったのか。
これまでどれだけたくさんの思い込みの上に、自分を作り上げてきてしまったのだろう。
そう思うと怖かった。
溺れまいとしがみつくように、誠司の胸をぎゅっと掴んで引き寄せる。
顔を上げると、誠司が柔らかく唇を重ねた。
それはゆっくりと次第に深くなる。
体の奥にかすかな安心の火が灯る。
「…………頼むから、夕子……そんな簡単に、傷つくな。」
そうささやきかける誠司は、未だ険しく眉を寄せたままだった。




