14 社会性の芽
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七夕会の前日、私は千秋とランチに出かけた。
あれから千秋は役員の仕事が忙しく、ランチに行くにもなかなか時間がとれなかった。
七夕会の前日は園で先生がリハーサルや会場準備をするため、役員の仕事からようやく解放される。
ランチの後すぐに園へ迎えに行けるように、自転車で二分くらいの所にある国道沿いのキッズカフェに千秋が予約を取ってくれた。
予約席は、クッションフロアの床にローテーブルの置かれた乳幼児スペースにあった。
ここでは、注文さえ済ませておけば座席にいなくても隣接した遊具スペースで料理が運ばれてくるのを待つことができる。
使い慣れているのか、靴を脱がされた修二くんはまっすぐ遊具スペースへと向かった。
千秋が先に注文をするよと抱き上げると少しぐずっていた。
千秋と再会したときはまだ腰も座っていなかった修二くんも、もう一歳二ヶ月。
歩けることが嬉しくて仕方がないようだ。
注文を済ませて一緒に遊具スペースに移動すると、ご機嫌になる。
「やっぱり男の子は動きが激しい。香澄よりず〜っと手がかかるよぉ。歩き出したらもう全っ然目が離せない。役員会にも連れて行けないから、裏に住んでる義理の母に預けてるくらいよ」
肩を揉みながら千秋は苦笑いを浮かべた。
役員の負担は随分大きいらしい。
熱心な母親ほど子どもを見てやることができなくなるなんて、おかしなことだ。
「やんちゃなんだ、修二くん」
「ほんっと、もうまいっちゃって。なんでも触るし、ダメだって言ってもきかないし。気が強くて、手に負えないんだから。ちょっとはおとなしくしてくれると助かるんですけどね〜〜」
千秋は口を尖らせて修二くんの前に顔を突き出す。
ママにかまってもらって嬉しいのか、修二くんは満面の笑みで応えた。
微笑ましいやり取りにちりっと胸が痛む。
私と七緒はこんな可愛いやり取りをした記憶がない。
いつも七緒は何かに夢中で、呼びかけても振り返ることすらなかったのだから。
子供の成長はあっという間だ。
悩んだことも、振り返るといつのまにか越えている。
もう一回最初からやり直して……そう叫ぶ七緒のパニックに怯えた日々も、今はもう遠い。
お母さん、焦ることはありません。ゆ〜っくり行きましょう。
ふと療育センターの医師の言葉が浮かんだ。
**
「夏休みに入ったら愛羅ちゃん、心臓の手術をするんだって」
修二くんの手に、ちぎった白パンを握らせながら千秋が話した。
「えっ……愛羅ちゃんが?」
突然の報告にスープをすくう手が止まる。
「愛羅ちゃんの心臓には生まれつき穴が空いててね。自然に閉じるのを待ってたみたいなんだけど、うまく閉じていかなかったみたいで。七夕会が終わったら、すぐ入院するみたい」
「心臓に穴……危険な手術なの?」
それがどういう状態でどのくらい危険なものなのか想像もできない。
経過を見ていたのであれば、緊急を要するものではなかったのだろうけれど……。
「簡単な手術だって言ってたけど、でも手術だもん。どんなに簡単なものだって怖いよね。ましてや心臓なんてさ。……ダウン症の子には心臓の病気を持つ子が結構多いんだって。愛羅ちゃんは定期的に通院して、普段の生活にも気を使って、療育にだって通ってるんだもん。障害があるって大変だよね」
「……そうだね」
愛羅ちゃんのママの不安を思うと胸が痛む。
私が療育センターの受診を待っていた頃、療育がどんなものか教えてくれたのは愛羅ちゃんのママだった。
体のこと、能力のこと、将来のこと……。
できるだけのことをしてあげたい。
そう呟く思いつめた横顔が浮かぶ。
「愛羅ちゃんに比べたらさ、七緒ちゃんなんて全然普通よ。元気に走り回れてんだもん。それにすごく賢いよね。この間私、カブトムシのさなぎについて色々教えてもらっちゃった。ほんと詳しくって感心したわ。香澄もあの探究心をちょっとは見習えばいいのに」
突然七緒の話になって、慌てて顔を上げる。
「ごめんね。七緒の話、長かったんじゃない?」
反射的に謝ってしまった。
誠司や森さんに話していたように、こんな忙しいママを捕まえて得意げな顔して話し続けたのかと思うと、なんだか恥ずかしい。
「ううん。同い年でこんな賢い子がいるんだって、ママ達みんなびっくりしてたよ。何か特別なことしてるのかしらって」
まただ。
「そんな、全然。幼稚園だけでぐったりだよ。幼稚園の活動ですら、ちゃんと参加できているか怪しいのに……」
かぶりを振っても謙遜にしか聞こえないことはわかっていた。
七緒の抱えている障害は知的な障害ではない。
社会性・コミュニケーションの障害なのだ。
冗長で一方的な七緒のスピーチはコミュニケーションの為のものではない。
七緒の目には名前のある個別の人間なんて、まだ写っていないのだ。
たとえ森さんであっても、きっと七緒はそれほど愛着を感じてはいない。
或る日突然別の用務員さんに入れ替わっていても問題ないのだ。
興味があるのは、その手の先にあるものだけなのだから。
子供社会も集団生活も七緒はまだ何もわかっていない。
他の子のように時間いっぱい教室で過ごすことすら、できていないのだ。
知的に遅れがないから、言葉がわかるから、覆い隠されて誰も気付かないだけ。
我が子の目に映らない私の寂しさは、不安は、誰にもわからない。
ママ、ママと千秋の髪を引っ張る修二くんが手にしている社会性の芽を、七緒はまだ芽吹かせてはいない。
「教室でいられないのは優しすぎる優里香先生のせいだよ。大丈夫。あんなに賢いんだもん。障害なんかあるわけないよ。何年後かにはこんな心配してた事もあったよねーって笑い話になってるって。今はなんでもちょっと変わってると障害とか名前つけちゃうけどさ、七緒ちゃんが障害だったらうちの修二だって障害だよ。すっごく多動だし落ち着かないし。おまけに乱暴。修二に手がかかりすぎて、香澄の相手する余裕なんかちっとも持てやしないんだから」
千秋はイタイ、と修二くんの手を引きはがしながらため息をつく。
「……そうそう、あれから夕子、優里香先生に七緒ちゃんのこと聞いてみた?」
修二くんを膝に抱きかかえながら千秋が尋ねた。