13 大丈夫
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「腐葉土って知ってる? 今日森さんが見せてくれたんだけど、今、中でちょうどカブトムシがさなぎになって眠っているんだって。さなぎっていうのはじっとしているわけじゃなくて、実は結構……」
七緒は、風呂場で誠司に向かって長々とおしゃべりをはじめた。
湯船から水の溢れる音が響く。
「見せてもらったのか! すっげーじゃん。いいなぁ」
いつもなら微笑ましくさえ思えただろう、誠司の熱のこもった相槌が鼻につく。
森さん。
誠司はこれまで話を聞いていて、”森さん”が子供じゃないことに気がつかなかったのだろうか。
いや、私だって何も気がつかなかったのだ。
誠司ばかりを責められない。
一人園庭で森さんにくっついて歩く姿を見たときはショックだったが、七緒らしいとも言えた。
今も何一つ悪びれず誠司に話をしているくらいだ。
七緒には、教室を離れ誰もいない園庭に出ている事がおかしな事なのだ、という自覚すらないのだろう。
千秋の口から聞いた、七緒が男の子に殴りかかっていたという事実はさらに衝撃だった。
普段の彼女の姿からは、にわかに信じられない。
他ならぬ千秋が止めてくれたのだから、間違いなはずはない。
だけど、七緒が人に暴力を振るうだなんて……。
あの子ちょっと変わってるのよ、と顔を寄せ合って噂話するママたちの姿が浮かんで、思わずぎゅっと目を瞑る。
「痛っ」
指先からまな板に血が滴り落ちる。
包丁を使っている途中に目を閉じてしまうなんて、何をやっているんだろう。
救急箱から取り出した絆創膏を指先に貼りつけると、しゃがみこみ、大きくため息をついた。
**
あの後七夕会の準備から戻った私は、七緒が昼寝をしている間に幼稚園に電話をかけていた。
「今日、七緒が一人で園庭にいるのを見ました。いつもそうだと聞きまして……」
「そうなんです。七緒ちゃんは本当に好奇心旺盛で、今は用務員さんのお仕事に興味津々なんですよ。思いもよらない斬新なアイデアを出してくれて、賢い子だって用務員さんも感心していました」
私の質問に、担任の優里香先生は思いの外弾んだ声を返した。
保育園の時みたいに集団行動ができなくて困っている、という話になると覚悟していたのに、思いもよらぬ反応に拍子抜けする。
「あ……いや、でも……集団行動ができず迷惑をかけているんじゃないですか? それにお友達との関係も心配で。乱暴しているような話も耳に挟んだものですから、色々気になりまして」
「乱暴? 七緒ちゃんが? 確かにぶつかっても気がつかないでそのまま行っちゃう、みたいなことはままありましたけど……。失礼ですが、七緒ちゃんはまだそこまで人に関心が向いていないみたいですからね。自分から故意に乱暴を振るうなんてことは、ないと思いますよ?」
優里香先生の言葉に、ぱっと七緒の行動が頭に浮かんだ。
確かに気づかずに人に嫌な思いをさせることは、大いにあり得る。
この間莉音たちとスーパーで会った時のように、人が目に入らずに目的に向かって一直線に飛び出していくみたいなことはざらだ。
何かに集中している時など、ずっと同じ部屋でいたのに、ママいたの、なんて平気で言うくらい人に関心が薄いし、相手の気持ちにも無頓着だ。
優里香先生は、想像していたよりもずっと七緒をよく理解してくれている。
「そうですか。噂になってるようだったので……本当にそうでないのならよいのですが、当人に聞いてもよくわかりません。実際七緒の暴力を止めてくださったママがいまして……」
千秋の言葉や噂話をするママたちの険しい顔が浮かんで不安は膨らむばかりだ。
彼女たちは送迎で毎日七緒を見ている。
教室で登園時の健康チェックや支度の補助をしている優里香先生が、見ることができない七緒の姿を。
「そうですか……それは把握していませんでした。申し訳ありません。ところで噂になっている、というのは……」
「はい。登園時に送迎に来たママたちが、血走った目をして廊下を駆け回る七緒を何度も見かけているようなんです。それで、もしかしたらよくない噂が回っているかもと友達が心配して、教えてくれました」
私の言葉に優里香先生が息を飲んだ。
「それは……お辛かったでしょう。こちらの配慮が足らず、申し訳ありません」
思いもよらぬ謝罪の言葉に胸が詰まった。
ギュッと唇を噛み、こらえる。
「確かに朝の自由時間は賑やかで、七緒ちゃんは落ち着かないかもしれません。朝はフリーの先生が園庭に出て子供を見ているので、様子を改めて確認してみます。…………今、七緒ちゃん、本当によく頑張っているんですよ。騒がしいのは苦手なのに、七夕会の練習もしっかり取り組んでいます。園庭に出るのもちゃんと私の許可を得て行くんです。それも遊具なんかに行くわけじゃない。一人だけ遊んでいるわけにはいかないと思っているみたいで、ちゃんと用務員さんのそばに行って仕事をするんです。それもほんの数十分のことなんですよ。別に七緒ちゃんだけを特別にしているわけじゃありません。息抜きに用事を頼んで教室を出す子は他にもいるんです。迷惑をかけているだなんて、全然そんなことはないですから」
確かに七緒は連日昼寝が必要なほど、疲れ切っている。
優里香先生が息抜きに教室を出してくれていなかったら、余裕をなくしパニックを起こす日々になっていたかもしれない。
**
うずくまって目を閉じたまま、大丈夫ですよ、という優里香先生の言葉を思い浮かべる。
穏やかに過ごせているように見える、七緒の姿を。
自分自身に向かって大丈夫、と唱える。
七緒は落ち着いている。順調なんだ。
すると、まぶたに心配になって……という千秋の横顔が浮かんできた。
本当は噂や、何より暴力がどういうことなのか不安がいっぱいだ。
でも先生がついているのだ。
きっと近いうちきっと解決することができる。
そう祈りながら指に巻いた絆創膏をさすった。