12 森さん
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六月に入って少しすると、七夕会の練習が始まった。
七夕会というのは、毎年七月に行われる音楽会のことだ。
遊戯室のステージで、不織布で作った簡単な衣装を着た子供達が合奏をする。
その衣装を作るのは、ママ達の仕事だ。
クラスごとに日を振り当てて、ママ達は遊戯室に集められる。
不織布をホッチキス留めして作る一回きりの使い捨て衣装だが、買付や型紙起こしなど、ここまで役員は大忙しだっただろう。
会長の千秋は、ホワイトボードを使って作成の手順をみんなに説明している。
こういう時の千秋の指示や段取りの良さは、私よりもずっと教師向きだ。
ママたちは早速グループに分かれ、型紙に合わせて不織布を切ったり、ラインテープを貼ったり、パーツをホッチキスで組み合わせたりとそれぞれの作業に移った。
「夕子ちょっと」
作業の途中、千秋に肩を叩かれた。
小声でささやき、手招きする。
千秋はそのまま部屋の隅へと足を進めた。
人目をはばかる様子を不審に思いながら、後に続く。
「突然、ごめんね。一応耳に入れておいたほうがいいかなって思ってね。……七緒ちゃんのことなんだけど、優里香先生から何か、聞いてる?」
千秋はみんなから背を向け、耳打ちするようにして話した。
「私、七夕会の準備で週に何回か園に入ってるんだけど、七緒ちゃん、いつも教室にいないのよ。用務員の森さんって分かるかしら。あの人について歩いているのね。それで腐葉土作ったり、飼育小屋や水槽の手入れしたりしているのをずっと見てるの」
千秋の言葉に、血液が砂になって足元にストンと落ちてしまうような衝撃を感じた。
いつだったか、誠司に向かって水槽のボンベの話をしていた七緒の声が蘇る。
森さんという名前にも覚えがあった。
クラスにはいないけど、バスで一緒になるお友達か誰かの名前だろうと思っていた。
七緒はおしゃべりで誰とでも話をするが、友達の名前を一人も覚えていない……
保育園の園長に言われた言葉が頭の中で渦を巻いた。
「それにバス通園だから夕子は知らないと思うけど、朝香澄を送っていくと、七緒ちゃんはいつも廊下をものすごい勢いで走りまわってるの。本当に危なくて……目なんかこう、血走ったようになっててね。一度なんかうずくまった男の子を殴り付けようとしたことがあったわ。慌てて止めたんだけれど」
「殴る?……そんな、七緒が?」
私の言葉に千秋は気まずそうに目を伏せる。
「うん。男の子はすぐ逃げて行ったんだけどね、それをまた七緒ちゃんが追いかけて……」
「……ごめん。ありがとう」
夏日だというのに背筋に寒気が走り、思わず身を縮ませた。
「ううん。送迎で結構ママたちも見てたから、噂になってるんじゃないかと心配で。夕子、一度優里香先生に相談しておいたほうがいいかもしれないよ?」
千秋は私の背中をポンと叩いた。
「また、今度ゆっくり話そ。児童館でもランチでも、一緒に行こうよ。ね」
考えてみれば、千秋と話すのは久しぶりだった。
ひと月は会っていなかったかもしれない。
バス通園になって、園で顔を合わせることがなくなったからだ。
七緒は園に通うようになって、夕方昼寝をするようになった。
ずいぶん疲れているようだったから、児童館からも足が遠のいていたのだ。
「あ、またあの子だ」
誰かが園庭に目を向ける。
同じグループのママたちが一斉に顔を上げ、窓の外を見た。
窓の外にいるのは七緒。
用務員らしき白髪頭のおじいさんが一輪車を押している隣を、七緒がついて歩いている。
鼻の頭に土をつけて、まるで一緒に働いているかのように真剣な顔をして。
「いつも園庭にいるよね。うちのクラスじゃなかったっけ、年中から入った子」
「あ〜。森さんにいつもくっついて歩いてる」
「そうそう、あの子ちょっと変わってるの。この間も……」
水の中にいるように声が遠のいていき、指先が震える。
どうしてそんなところにいるの、七緒。
誰もそんなことをしている人はいないでしょう。
遠くからピアニカの音が降ってくる。
きっとみんな七夕会の練習をしているんだ。
窓の外の七緒をじっと見つめる。
こんなに見つめても森さんに話しかけることに夢中で、七緒は私に気がつかない。
七緒……七緒…………七緒。
「うわっ。作業早いねぇ。もうこんなに進んだの?」
千秋は、七緒を見ながら噂話を始めたママの肩に手をのせた。
その声に窓へ向いていた目が机に戻る。
彼女たちの輪の中に溶け込もうとするように、千秋は空いているパイプ椅子を引き寄せて腰掛を下ろす。
「まだ割り振れてない作業もあるんだけど、手伝ってもらっていいかな。星の形のね……」
千秋はうまく話題を衣装のほうへ誘導し、七緒からそっと関心をそらしてくれた。
一瞬、七緒がこちらに目を向けた。
目があったような気がした。
なのに、七緒はしまったという表情をするでもなく、またニコリと微笑みかけてくるでもなく、目の前の森さんの軍手をはめた手元にさっと視線を戻してしまった。
そして再び森さんの背中に向かっておしゃべりを始める。
誠司と話している時と同じように、得意げな顔をして。
七緒。
あの子にとって私は何だろうか。
必要だろうか。
他人と何が違うというのだろうか?
私はからっぽ。
指先から空気に溶けて、どんどん透明になっていくようだ。
私はそっと席に戻り目の前の作業に没頭した。
そこにいるような、いないような顔で。