第三十七話 恩師⑤
縁ちゃん視点です。
『雨守! いったいどうやってあの車を止めるんだ?!』
「先生が止めるんですよ!」
『何だって?!』
「俺が男の心に隙を作ります。その時がチャンスです。
男に乗り移って、先生があの車を止めるんです!」
『そんな……そんなことが?』
「縁は車を運転したことがない!
先生がやるしかないんです!!」
うんうん、そうです、きっとできます!
いえ、やってッ!!
「渡瀬さん!
あの車と並走してくれ!!」
「まかせてッ。」
渡瀬さんはアクセルをグンッと踏み込む。
クゥーンと加速し、滑るように黒いワンボックスの右横に並ぶ! 『行き止まり』の看板を二台の車は通過した! もう、先はほとんどないわ?!
渡瀬さんは車間を2mくらいに合わせながら走る。
突然、先生はドアのガラスをウィーンって開けた。
え?
そんな、いけないです!
いきなり身を乗り出すから、さっきより深く先生がッ!!
ああ、私、もう、ダメぇ……って、寸前に先生がワンボックスに向かって叫んだ。
「こぉらッ!! おまえらッ!!」
先生が『先生』の声色を真似て、聞いたこともないような大声をあげた。
瞬間、ワンボックスがふらふらっとその挙動を乱す。
薄ーくスモークがかったガラスの向こうで男がびっくりしてる。その更に奥で、妙子さんが涙で溢れた目をこちらに向けてるのが見えた。
「お爺ちゃんッ?! お爺ちゃんッ!! 助けて!!」
『妙子ッ!』
「先生、今ですッ!」
深く頷いた『先生』の姿は、次の瞬間には渡瀬さんの車から消えていた。それとほとんど同時に、ワンボックスにブレーキがかかる。
苦しみ叫んでいるようなタイヤの音は、ちょうどその道が途切れた、まさに断崖の手前で、ようやく止まった。
『先生』と妙子さんは大丈夫かなッ?!
スピンターンで止まった渡瀬さんの車から、私も急ぎワンバックスへと移る。
運転席の男の姿のまま、『先生』は妙子さんに優しく微笑んでいた。
「妙子。怖かったか? もう大丈夫だからな。また心配かけおって。」
すぐに妙子さんは感じとったみたいだ。
「お……お爺ちゃんの口調だ。お爺ちゃん。ごめんなさい!
ごめんなさい!!」
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『渡瀬さん、なんでそんなもの車に積んでるんですか?』
「ガムテってトラブった時、結構役に立つの。
恥ずかしいけど、へまやらかしてバンパー外れた時とか固定したりね。
軽いから乗せたままでも全然パワーロスにはならないし。」
そう言いながら、渡瀬さんは目の前にかざしていたガムテープを、ちょうど羽織を妙子さんの肩にかけてあげていた先生に手渡した。
「ほんと、すごく用意がいいよな。
運転だって、あんな才能あるなんて思いもよらなかった。」
ぽっと赤くなった渡瀬さん。
なんだか今まで知らなかった渡瀬さんに出会ったようで、私はちょっとときめいてる自分にびっくり。
先生も呆れるというより、感嘆のため息を漏らしてる。
そしてまだ『先生』に憑依してもらってるままの男の片手をハンドルに通すと、もう一方の手と合わせ、手首にグルグルと何重にもガムテを巻いていく。
「先生、もういいですよ。そいつから出てきても。」
「ああ。
なにやら気持ちが悪いなと思ったが、
こいつ失禁してるじゃないか。」
ああう。そこからは目をそらし~。
『先生』が抜け出した瞬間、ふっと倒れそうになったあと、男ははっとしたように辺りを見渡した。逃げようとして初めて固定された腕に「いてッ」と叫び、今の状況が信じられないという顔をしている。
先生は男の前に歩み出た。
「お前、自分でしたこと、わかってるよな?」
渡瀬さんと『先生』の陰に守られた、赤い目を背けた妙子さんを見るなり男は喚きだした。
「ボッ、僕らはドライブしていただけさ!」
「妙子さんをこんな姿にして、何がドライブよ!」
男を見据える渡瀬さんは、低く唸った。
男は全く恥じることがないかのように叫びだす。
「いや! そ、それだって合意の上だったんだ!
彼女だって俺のことを!
だから、あんたらには関係ないじゃないかッ!」
雨守先生の右拳がわずかに動いた瞬間、その手首を渡瀬さんは掴んでいた。驚いて振り向く先生をそのままに、渡瀬さんは男を睨む。
「ふざけないでッ!
未成年と知っての連れ回し、淫靡な行為の強要は県の条例違反よ。
それ以前にこれは、強姦!
犯罪です!!」
遠くから、さっき渡瀬さんが呼んでいたパトカーのサイレンが聞こえて来た。初めて男はうろたえた。
「え? そんな……あの、大学には……いえ!
親には黙っててもらえませんか? 親には心配かけたくな
「甘えないでッ!!」
渡瀬さんは怒鳴って男の声をかき消した。そして深く深呼吸すると、まだ荒い息遣いの中、声を絞り出す。
「この子にも、心配してる家族はいるのよ?
それにあなた、教育実習生だったんですって?
『先生』なんて名乗る資格は、あなたには一生ないわ。
観念なさい。」
「そんなッ! こんなのちょっとした過ちじゃないか?」
ぶちっと私の中の何かが切れた。
大きくなってきているはずのサイレンの音さえ忘れていた。
とり殺そうと男に迫った時、私の前を雨守先生の背中が遮った。
「過ち……か。お前、妙子さんをこんな姿にして……。
欲望のまま彼女を犯した後……どうする気だった?」
表情は見えないけれど、先生は怒っている。
「そんな、そんなこと……。」
男はただ先生を見上げながら目を泳がせている。先生は静かな口調のまま、続ける。
「笑って家まで送り届けて、なんてことないよな?
『黙っててくれ』って、さっきお前が言ったとおりだ。
お前みたいな奴らが女性にその後なにをするか……。
黙らせるんだろ?
首をし
「雨守クンッ!!
もういいわ。
妙子さん、本当に震えてるから。
この子も十分わかったわ。
それに……。」
先生を制した渡瀬さんを振り返ると、そこにちょうど、パトカーからおりた警官が駆け寄ってきた。
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男を警察に引き渡し、妙子さんが落ち着いてからまた事情を説明すると先生は警官に伝え、私達はまた、渡瀬さんの車で帰路についた。
私は、もうその必要はないんだろうけど、ちゃっかりまたさっきと同じように先生の前に(先生は一度、また?って顔したけど、拒否しなかったし)。
後部シートに妙子さんは左に、『先生』は右にと、並んで座る。
妙子さんはまだ少し、肩を震わせていた。
その姿をルームミラー越しに一度覗くと、渡瀬さんはため息をついた。
「学生気分のままで教師の真似事されたんじゃ、たまらないわね。」
「公務員の運転とも、思えなかったがね。」
「それを言わないでよ。もう。」
先生はわざとか、少し明るい口調だった。それにつられてか、渡瀬さんの口元も緩む。
すると、シートに預けていた体を起こし、妙子さんが先生に尋ねた。
「あの……お爺ちゃんの、教え子さんでしたよね?
あの時の声って……。」
ああ、『こぉら!』って大声のことね?
先生は前を向いたまま、妙子さんに答えた。
「ああ。君のお爺さんのモノマネだ。」
「……そっくりでした。」
「俺でさえ、先生のモノマネしてたくらいだから。
先生のこと、皆、好きだったからね。」
初めて聞いたかのように、目を丸くして『先生』は先生を見つめてる。
「私、おじいちゃんがどんな先生だったか、
教えてもらってませんでした。」
「先生はね。
怒る時だって、ほめてくれる時だっていつも真剣だった。
もちろん、今日もね。」
「じゃあ、自転車、直してくれたのもやっぱり……。」
妙子さんの声は、少し嬉しそうに聞こえた。先生は穏やかに話し続ける。
「クラスにいじめがあった時だって、
真っ先にお前達のこと、わかってなくてすまない、なんて謝ったりして。
あれには皆、びっくりしたよ。」
その話って、『先生』から聞いたのと同じ話!
「普通の先生なら『お前たちの問題だ』って、
自分は安全圏に身をおこうとして、
一段高いところから言いたくなるものさ。
人間って、弱いからね。
でも、そんなふうに、嘘のつけない先生だった。」
「……お爺ちゃんらしい、です。」
振り向くと、『先生』は少し恥ずかしそうな、静かな笑みを浮かべていた。
そして、先生と妙子さんを見つめながら、すーっとまばゆい光の中に消えていった。
『先生、今、先生の先生が……。』
私の言葉に、先生は私の頭に顎を乗せるようにして答えた。
「うん。うん。」
妙子さんはまた身を乗り出す。
「今も、お爺ちゃん、私の隣にいてくれていますか?」
先生は静かに何度か頷くと、優しく答えた。
「……ああ。君を見守ってる。」
「はい!」
妙子さんは目を閉じて、再びシートに身を深く沈めたみたい。
『先生は、嘘ついちゃいましたね。』
「俺は先生には、敵わないさ。」