第三十五話 恩師③
渡瀬さん視点です。
「あら、お客さんですか? いらっしゃいませ。」
「いらっしゃい。
妙子ぉ? あれ? いないのか?」
お爺さんが雨守クンの初恋の話をしようとして微笑んだ、まさにその時だった。
突然背中に声をかけられて思わず背筋がピンと伸びちゃった!
『ああ、娘とその婿ですよ。』
ええ~ッ?!
もう少しだったのに!!
お爺さんの幽霊と話してたなんて悟られないよう、早く答えなきゃいけないのに、
頬がぴくぴく痙攣したままの私に縁ちゃんは容赦なく迫る。
『渡瀬さん、早く早くッ!』
「わ、わかってるわよ。」
早口に囁いて、お爺さんの娘さんとお婿さん、つまり妙子さんのご両親に体を向ける。
「す、すみません。
私達が着くなり、妙子さん自転車に乗ってどこかに行ってしまって。
お父様、お母様、すぐお帰りになるから、上がっててくださいと。
それにあともう一人、これも勝手に今お風呂を頂いていて……。」
旦那さんが私達の靴を下駄箱に丁寧に入れながら、気さくな笑みを向けてくれる。
「ああ、結構ですよ。
どうぞどうぞ、楽になさってください。
じゃあ、すぐ部屋を用意しますから。」
「あの子ったら、お客さんほっぽりだしてどこに行ったのかしら?」
隣で奥さんはしかめっ面をした。
お爺さんは腕組みをしながら眉間にしわを寄せる。
『よりによってあんな男と付き合いおって!』
「貴重品だけお持ちください。大きな荷物は後でお持ちしますので。」
「外は暑かったでしょう?
夕飯の支度が整うまで、どうぞお風呂に入ってらしてください。」
『お前達にはどうしてわからないんだ?!』
「ああ。宿帳をあとで……
にわかに賑やかになったお爺ちゃんのご家族が、てんでばらばらにしゃべりだしたわッ!!
「ああああ、は……はい。」
ちょっと狼狽えてる私に、縁ちゃんはささやく。
『渡瀬さん、お風呂行ってきてください。
私、ちょっと確かめたいことが。』
「な、なによぉッ?」
笑顔(ひきつってないわよね?)を、妙子さんのご両親に向けながら
私は縁ちゃんの動きを横目で見る。
囲炉裏の灰に……『あんな男って? 私も幽霊です。』って指文字で。
そうか!
お爺さんには縁ちゃんが見えていないんだわ。
縁ちゃんはそれに気がついていたから!
私の視線に、お爺さんも灰に書かれた文字に気づいたらしい!
『な! これ、どういうこと?』
「私の友達です。
お爺さんの目の前に、いるんです。
幽霊女子高生が!」
どうにかお爺さんにささやいて、私は妙子さんのご両親に勧められるまま
お風呂にいくことになっちゃった。
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そうか。
縁ちゃんだけ、お爺さんとの話にストレートに加われなかったものね。
雨守クンの過去の話を聞いて、結婚まで考えてた人がいたなんて、
びっくりしちゃって縁ちゃんのこと、すっかり忘れちゃっていた。
でも、縁ちゃんはきっと、その人のこと、私より知っている。
また私だけ、置いてけぼり。
しかたないけど……ないものねだりなんだろうけど……淋しいな。
ぼーっとそんなことを考えながら、離れへの廊下を歩いて暖簾をくぐる。
そして脱衣所から、内風呂へ。
体を軽く洗っても、その内風呂へは入らずに……。
だって、朝から泣いてばっかりだったもの。
露天風呂があるって聞いていたから、そこで少し、気持ちをすっきりさせよう!
戸を開けると、
そこには熱気を帯びた湯煙が立ち込め、頭上には竹林からの涼しい風が抜けていった。
「ああ~、気持ちいいなぁ!」
「ええッ?! わッ 渡瀬さん?!」
ざばっというお湯から飛び出したような音と、雨守クンの声?!
湯煙が晴れた瞬間、少し離れたとこに驚いて立ち尽くしてる雨守クンがいた!
そんな……見ちゃった。
それに見られちゃった。
一瞬遅れて、雨守クンは湯船にばしゃんって浸かって背中を向けた。
「ご、ごめん。」
「わ、私こそごめんなさいッ!
ぼーっとしていて、女湯と間違えちゃったんだわ?」
「いや、いいよ。
今のうちに、入っちゃって。
そしたら俺、反対向いたまま、すぐ出るから。」
雨守クンが狼狽えてるのがわかる。
私だってドキドキしてるのに、なぜかそんなに恥ずかしくないのは、
あの死霊との戦いで見られていたから?
でも……どうしよう。
体が火照ってくるのが自分でもわかる。
雨守クンの引き締まった大きな背中。
でもその傷だらけの背中を見て、急にまた切なくなった。
その痛みを私にも、分けて欲しいって思った。
「雨守クン、私……あなたのことが好きなのッ!!」
雨守クンには、昔、大切な人がいた。
そして今は縁ちゃんがいる。
私なんて、入り込む隙間もないのに。
でも……。
今までこらえていた気持ちが、溢れてしまった。
答えなんて、わかってるのに。
でも、答えを待って、ただぎゅっと目をつぶっていた。
……あれ?
雨守クン?
そっと目を開けた時、雨守クンの体が、ユラッと揺れて湯船にぼしゃんって!
「雨守クンッ!!」
ええッ?
もしかして聞いてもらえてなかったぁッ?!
いえッ!
それどころじゃないわ?
慌てて湯船に飛び込んで、彼の体を支える。
「う、ううん。
ご、ごめん。
体力落ちてたせいか、ちょっとのぼせた。」
頭を振りながら、体を起こそうとした雨守クンの手が私の胸をつかんだ!
雨守クンの指が、敏感なところに。
「あッ……いやッ……。」
思わず声が漏れてしまった。
「はああッ! ごめん!!」
雨守クンったら、慌てて立ち上がるから目の前にっ!
「きゃああああッ!」
『どうしたんですかッ!! 渡瀬さんッ?!』
私の声に縁ちゃんが飛び込んできたッ!
そして……一人パニックに陥っていた。
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日が傾き、夕焼けが差し込む部屋で
雨守クンと二人、浴衣で正座したまま縁ちゃんに向かう。
縁ちゃんは怒ってるとも、悲しんでいるともつかない表情をぐるぐる目まぐるしく
変えながら私達を見つめる。
いくらか湯あたりも治まった雨守クンは、縁ちゃんをなだめるように言う。
「だから、誤解だって。何もなかったんだって。」
『もちろん信じてますよおおおおお。
だって、離れていたじゃあないですかあああああ。』
「私が、ぼーっとして、女湯と思い込んで入っちゃって。」
実は、ここはお風呂は一つだけ、
家族風呂というものしかなかったことに、お風呂を出る時に気がついた。
それは縁ちゃんも同じらしかったけど。
『無理もないですよおおおおお。』
無理に笑おうとしてるから、余計に怖いわよぉ。
だいたいただでさえ言い訳しにくいシチュエーションだったのに、
さらに状況が悪いわ。
だって、一つ部屋に二つの布団が並べられてるんだもの!
もしかして……。
『二人とも、
新婚さんだと思われてるみたいですしいいいいいいいいい。』
だからお風呂勧められたんだわ……って、
今ここで新婚と間違えられたこと、密かに喜ぶわけにはいかないわよね?
「これは後で部屋を分けてもらうように言ってくるよ!」
『わわわ私だって、
べべべべ別に子どもじゃありませんしいいいいいいいいい。』
縁ちゃんの目からハイライトが消えてるッ。
ああ~どうしよう。
縁ちゃん、男性経験なさそうだから、
変なトラウマになっちゃったらどうしよう?
ずず~んと重たい空気に押しつぶされそうッ。
その空気を突然壊したのは、いきなり飛び込んで来たお爺さんだった。
『雨守!
妙子が!
助けを呼んでる!
お爺ちゃんって!!』