雲と君に届く声
とある晴れた日の、午前。教室の一番窓際で一番後ろの席に座る女子、ひなたが、机やリュックの中を何やらがさごそしている。
(無い…)
次の時間の教科書、数学の教科書が見当たらないのだ。むぅ、と少し考えてからひなたは隣の席に座る男子、ひろに話しかけた。綿密に言えば、話しかけたのではない。ひなたは言葉を発することができないのだ。中学生の時、クラスに馴染めなかったひなたは喋ることをやめた。そうしたらいつの間にか、ひなたは言葉を発せなくなっていた。それからというもの、誰かと会話する時は自前のノートなどを使い筆談するようにしている。とんとん、とひなたはひろの肩を叩く。
「ん、ひなたどうしたの?」
すかさずノートに書いたものを見せる。
"ひろごめん、数学の教科書忘れたから見せて"
「ああ、いいよ」
二人は高校に入ってからの付き合いだが、ひろの優しさに何度もひなたは救われている。「おはよう」の挨拶とか「ばいばい」の挨拶とかを手話でしてくれるのだ。ひなたはその挨拶の時間が好きだ。
授業が始まり、二人はお互いの机をくっつけた。ひろは自分の教科書を机と机の真ん中に置いた。しかし、授業が始まってしばらくしてもひなたはその教科書に目を向けない。窓の方を見ているのだ。不思議に思ったひろは付箋に何やら書き出す。その付箋を教科書に貼り、机をトン、と指で小さく叩いた。ひなたがそれに気づき、付箋を見る。
"何を見てるの?"
それを読んだひなたは少し微笑み、自分のペンケースから付箋を一枚とった。
"雲を見てたの。色んな形があるなぁって"
同じように教科書に付箋を貼ったひなたは、またすぐに雲探しに入る。何となく、ひろも窓の方を向き空を見上げる。
"あ、俺猫の形の雲見つけた"
"え、どこ?"
"大きい雲の下にある"
"見つけられない。気になる…どこだろう"
付箋での会話は続くが、ひろは段々字で説明するのがもどかしくなってきた。
「ほら、あっちにあるやつ」
遂にガタッと音を立てて立ち上がり、猫の雲を指さしてしまった。
「そこ、授業中だぞ」
「あ…すみません」
先生に注意されたひろは静かに座り、バツが悪そうにひなたを見る。ひなたはそんなひろを見ていたずらっぽく微笑んだ。目線を外した後ひなたはまた窓の外に夢中になった。
(あ、猫の形…見つけた)
咄嗟にひろの方に振り返ったが、もう彼は真面目に授業を受けている。教科書に貼られた付箋がそよ風に揺られて楽しそうで、ひなたはまた微笑んでしまった。
次の日の朝。ひなたは早くから自分の席でいつものように空を見上げていた。
「ひなた」
その声にハッとする。ひろだ。
"おはよう"
(おはよう)
すかさずひなたも手話でおはようと返す。声はやっぱり出なかった。
「うん、おはよ」
"元気?"
この手話をしたのは初めてだ。ひろは意味を知らないかなぁ、伝わらないかなぁ、とひなたは思う。でももう少しひろと会話がしたかったのだ。
「元気だよー、また雲見てたの?」
伝わった。ひなたは嬉しさで元気よく頷く。
「ほんと飽きないよなぁ。面白い形見つけた?」
ひなたは少し悲しげに首を振った。結構長い間空を見ているのに、これといった形を見つけられていないのだ。
「そっか。面白いの見つかったら俺にも教えてよ」
俄然やる気が出たひなたは、また元気よく頷く。絶対見つけられるような気がした。
一校時が終わった後、移動教室のため廊下を歩きながら、やはりひなたは一人で空を見上げていた。
(あ、あの雲…)
やっとひなたの納得のいく「面白い形の雲」を見つけた。すると丁度よく廊下の少し先にひろの姿が目に入る。一人で壁に寄りかかっていて、今なら話しかけられると思った。小走りで近づく、と。
「ひろー!ちょっときてー」
「りさ?」
遠くにいる、「りさ」というらしいひなたの知らない女子がひろの名を呼ぶ。ひろは「りさ」の方に行ってしまった。声を出せたら良かったんだ。「ひろ」それだけ言えたら…。そんなことを思うだけで、声は出なかった。遠くに行くひろを呼び止められなかった。ひなたはその場に立ち尽くし、少し俯き、また移動教室へと歩き出した。
移動教室での授業に集中できなかったひなたは、ぼーっとしながら自分の席に戻る。少し口を開けてみる。あ、と発音しようとした。
(声を、出さなきゃ)
ひろと話すために。ひろに近づくために。でもやっぱり声は出ない。丁度その時、移動教室から帰ってきたひろが自分の席に戻ろうと歩いてきた。
(今だ)
「ひろ」
「あれ、どうした」
「実はさー」
ひろ、と呼んだのはひなたではなかった。教室の扉のそばにいる、りさだった。ひなたはまた、遠ざかる背中を見て俯いた。りさとひろは楽しげに何かを話していたが、話が終わるとひろはひなたの隣の席に戻ってきた。
「ひなた、面白い雲見つかった?」
ひなたはこくん、と小さく頷く。ひろと目は合わせない。
「え、どれ?教えてよ」
ひなたはふるふる、と首を横に振る。やはりひろと目は合わせない。
「…どうして?」
ひなたは何も応えない。
「俺、何かした?」
少し考える素振りを見せてから、またひなたは首を振る。
「じゃあ何で」
ひなたはガタッと音を立てて勢いよく立ち上がった。走って教室を出てしまう。
「ひなた!?」
ひろは急なひなたの行動に少し戸惑い固まったが、すぐにひなたを追いかけた。ひなたを追いかけていくと、屋上にたどり着いた。何をしているのだろうとそっと覗くと、ひなたは柵に手をかけて空を見上げていた。
「ひなた」
ひなたはびくっと肩が震えて振り返ったが、ふてくされたような顔をしてまた空を見上げてしまった。ひろも柵の近くに歩み寄る。
「急にどうしたんだよ」
ひなたは首を横に振る。
「何かあった?」
首を横に振る。
「やっぱり俺なんかしたの?」
首を横に振る。
「うーん…」
沈黙が続き、何となくひろも空を見上げる。屋上からだとたくさん雲が見えるものだと思った。
「あ、あの雲面白い形してるな」
ひなたがはっとしたような顔でひろを見る。ひろはなぜそんな反応をしたのだろうかと疑問だったが、すぐにその意味に気づいた。
「もしかしてさっき見つけたって言ってたのってあの雲?」
ひなたは少しだけ嬉しそうに、静かに頷く。そんな様子を見てひろも少し嬉しくなった。
「あの雲だったか。あの雲何となくひなたに似てる」
しばらく考えた末、その意味が理解出来なかったのかひなたは雲を見たまま首を傾げた。
「人の横顔に見えるのと、ふわふわしてる感じが」
ひなたはひろを見て微笑んだ。ひろも同じように微笑み返す。と、ガチャッと大きな音を立てて急に屋上のドアが開いた。そこから現れたのはひろの友達だった。
「ひろ、りさが探してたぞ」
「おう、じゃあ俺行くね」
ひなたに声をかけてひろが友達の元へ歩き出す。またひなたはひろの後ろ姿を眺めている。ひなたはなぜか焦る。
(ひろがまた、りさちゃんって子に取られちゃう)
ひ、と言おうとしたが言葉にならなかった。もどかしくて涙が出そうだ。ひろが屋上のドアに手をかけて、開けて、行ってしまう。ひろが追いかけてきてくれたようにひなたは走って追いついた。ひろの後ろ姿に叫ぶ。声にならなくてもひろなら気づいてくれるはずーーそう思った。
「ひろ!」
ひろが驚いて振り返った。ほら、声が出なくてもひろは気づいてくれる…
「今、ひなた俺のこと呼んだ?…声が、出たの?」
ひろは何が起こったのか分からなかった。ひなたも何が何だか分からないのだから仕方ない。
「…ひろ」
もう一度声を出してみた。本当だ、声が出ている。ひなたは信じられなかった。そして信じられないくらいにひなたの心は満たされていた。
翌朝。またひなたは教室の自分の席で空を見ていた。
「ひなた」
登校してきたひろが声をかける。ひなたが静かにひろの方を見る。
「ひろ。おはよう」
「おはよう」
もう二人の間に手話はいらない。
「…ひろ?」
「うん?」
ひなたは照れくさそうに、少し黙ってから空の方を見て言った。
「…ありがとう」
「うん」
「…あのね、猫の、形…見つけたの」
しばらく話してなかったからか、まだ流暢には話せないけれど。
「そっか」
ひろは笑う。空から、太陽が二人の心を暖めていた。