7-3 正義のミカタ
日が昇るよりも早く、瑠璃色の空が地平線まで覆っていた。月は傾き、山陰に隠れてしまっている。
規則的な振動と駆動音に抱かれながら、文明の色が見えない谷間を進んでいく。木々はどこまでも深い闇をもたらし、ぞくりとするほどの静けさを形作っている。各都市間をつなぐ『日廻』という魔力機関車。それに飛び乗り、すでに五時間が経過していた。
四人乗りの座席には人間が二人しかいない。教科書とにらめっこしながら鉛筆を動かす六之介と二つの座席をまたぎ、身体を丸めて眠りにつく綴歌である。
目的地の『八坂』まではあと三時間ある。六之介は、ふうと大きく息を吐き出しながら、縮こまった関節を伸ばす。こきりと乾いた音がした。疲労感が強い。八坂行きを命じられてから十時間と少しが経っており、ほぼすべての時間を勉強に費やしている。そのおかげで二冊の教科書を潰すことをできたが、試験の出題範囲を考えると微々たる程度である。可能な限り出題範囲を綴歌に絞ってもらったのだがいまだに終わりは見えない。ないがしろにしていい教科が一つもないというのは、なかなかどうして厄介である。
窓にかかっていた暗幕を下ろす。遮光性が高く、一気に車内は暗くなる。集中力はすでに尽きかけていた。これ以上は頭に入らない。吸収した知識を頭に刻み込むには睡眠は必要不可欠だ。一夜漬けでどうこう出来る量ではないため、しっかしとした学習計画が必要となる。
今は眠るときだろう。三時間眠れれば疲労は回復できる。到着の三十分前に起きれば、睡眠周期としても問題ない。八坂は終点ではないが、到着前に一声かけるよう、車掌に頼んである。寝過ごす心配もない。
腕を組み、瞼を下ろすと、意識はすぐに遠のいていった。
日ノ本の首都は『帝都』であるが、都市としては近代化がなされているかといえば否である。帝都は太古から続く文化を引き継ぐ都市として、伝統的な装いが多く残されており、新しいものを積極的に取り込むというよりは『古き良き日ノ本』そのままの光景が残っている。
では、この国で最も発展している場所、あるいは近代化が進んでいる場所はどこであるかと問われれば皆が口をそろえてこう言うだろう。
『八坂』。
日ノ本国内唯一の第二級魔導都市。特筆すべき点は多々存在するが、あえて挙げるのならばその柔軟性であろう。新しいものを積極的に取り入れ、息継ぎする間もないほど目まぐるしく変化していく街並みは圧巻の一言である。加え、魔導機関を初めとする多くの機関や組織が集中しており、日ノ本の変化はこの街から始まるとさえ言われる。
そしてこの八坂が特に力を入れている事柄が、教育である。巨大な街の一部は学園都市のようになっており、人口の五分の一が学生であった。教育は無数の部門に枝分かれしている。医療、工学、文学、農学、歴史学、科学、生物学、魔導学、その内部でもより専門分野に分岐する。その全容はあまりにも巨大だ。さながら数百年という悠久の時を生きた大木の根であり、完全に把握している者は数えるほどしかいないだろう。
『日廻』は八坂の北西部にある八坂駅で停まり、乗客とその荷を降ろす。帰省にしても旅行にしても中途半端な時期であるせいか、客数は少なかった。そこから、魔導官学校方面へは御剣同様、路面電車に乗って向かう。
街並みは御剣の様に特徴のあるものではない。ただ民家や商店が乱雑に立ち並び、入り組んだ街並みとなっている。隙間という隙間に無理やりにでも建築物をねじ込んだような造りである。しかし、生活をするうえでの空間は十分に確保されているようであり、閉塞感はなく、巨大な立体パズルを見ているような気分になる。
また緑の多さが目に付く。植物と共生しているとでもいえばいいのだろうか。いたる所に自生していると思われる木々が揺れている。
御剣と比べると、入り組んだ路線をゆっくりと進み、小手毬という駅に到着する。
「……重い」
山の様に積み重なった教科書は荷車に乗せられているが、それでも重い。体感だが、三十キロ近くはありそうである。
「ほら、きびきび動きなさいな」
十分の睡眠をとった綴歌は元気一杯である。おそらくは学生時代の思い出の地にいるということも起因しているのだろう。心なしか瞳が輝いているように見える。
「……たった一年でも、やはり多少は変わりますわねえ」
一切迷いのない足取りで、複雑に曲がりくねった道を進んでいく。太陽のおかげで方角は分かるが、それでもどこへ向かっているのか、ここがどこであるのかはとうに判断できなくなっている。
ふと見上げると。強い日差しの中、似通った形状の建物が斜面に沿って規則的に並んでいる。
「あれは?」
「学生寮ですわ。魔導官学校は五年制で、最初の三年間は実家、あるいは寮から通いますの。ですが最後の二年間は六人が一班となってあそこで共同生活をするのです。私は……ほら、あそこの……楠木があるでしょう、あの右下で生活していましたの」
青々と葉を茂らせ、風に揺れている。村の周辺でもめったに見られないような巨木である。
「人がいないね」
「それはそうですわ。今は日中ですもの。授業の真っ最中ですわよ」
そういって指さした方向には白塗り、四階建てでコンクリートの直方体をいくつか繫げたような形、その窓に学生服の生徒たちがうろついていた。和気あいあいとした雰囲気が見て取れる。
「あれが魔導官学校?」
「の一部ですわね。魔導官学校の……あれは第三校舎ですから、カイカの校舎ですわね」
「かいか?」
「展開科の略称ですわ。魔導官学校は五年制、初めの二年間で魔導官としての基礎知識を叩き込み、次の一年間では放出科、形成科、展開科、総合科に分かれて実技を中心に学び、最後の二年で部隊を組みながら国家試験対策、現地実習などを行いますの。科ごとに校舎が異なっていて、前述の四つに加え、中央校舎、武道場、資料館、図書館などがありますのよ」
少なくとも八つ、あるいはそれ以上の校舎が存在しているということか。
「かなりの規模だね」
「それは、まあ当然ですわ。国内最大の魔導官養成施設ですもの」
綴歌の顔はどこか誇らし気であった。
すぐに大きな案内板があった。明確な区切りはないが、このあたり一帯から学び舎の敷地内であるらしい。現在地を確認し、どこへ向かうべきか検討していたが、綴歌はそんなものに一目もくれず歩き出す。六之介はその後を追う。
学生街という事もあってか、松雲寮と似通った建物が多い。ただ、どれもがかなりの年季を感じさせる代物だ。黒く変色した木壁にはびっしりとナツヅタが覆い、ひび割れた曇硝子の窓、立て付けが悪いのか半開きの玄関と、一見すると廃墟の様だ。しかし、傍らの駐輪場には自転車や自動二輪車が置かれ、庭の物干し竿には灰色の着流しがかけられている。
その隣には『田村食堂』という暖簾を掲げた平屋があった。これまた年季のある建物で、築十年や二十年では済まないだろう。昼に向けた下準備中なのか、格子窓から香ばしい香りが漂ってくる。
綴歌の背を追いかけながら、先へと進んでいく。
学生たちによって営まれている商店街、飲食店街の説明を受ける。魔導官養成学校ではなく、高等学校の家政科の生徒たちが管理しているという。他にも呉服屋、書店、学習塾などもあったがこれらも全て学生によるものだそうだ。
十分に日が昇ったころ。ようやく目的の場所にたどり着く。
「……着きましたわね」
意気揚々とした綴歌はもういなかった。珠のような汗を光らせ、呼吸が乱れている。心なしか顔色も悪い。
「……くっ、分かっていたとはいえ日差しが……」
汗をぬぐい、噛みしめた唇からうめきが漏れた。
本人も口にしていたが、本当に暑さに弱いようである。
「適度な水分摂取を忘れずにね」
「水は飲んでますわ」
「水だけじゃなく、塩分も。できれば砂糖も入っているといいかな」
「そうなんですの?」
「うん。今度、経口補水液の作り方教えてあげるよ」
レシピというほどのものでもない。秤量さえ出来れば子供でも作れる代物でる上、効果は折り紙付きであると胸を張って言える。味が良くないという事は目を瞑らなければならないが。
「そういうものも向こうの知識なんですの?」
「そうだよ」
何度か真夏の密林での戦闘を命じられたことを思い出す。敵は某国の正規部隊であり、少数である超能力者部隊はゲリラ戦法をせざるを得なかった。少ない戦力を最大限に保つため、酷暑の中でも平常でいられるように尽力した記憶だ。自分は後方からの物資支援だったとはいえ、あの戦闘で無事生還できたのは奇跡としか言いようがない。敵の攻撃というより、環境そのものがあまりにも過酷であった。
「ふうん。さて、では、ここがしばらくの住まいになりますわ」
深く踏み込まないあたり、彼女も六之介の過去に対して思うものがあるのだろう。無理やり話をずらす。
二人の前にあるのは、先ほどの校舎とは打って変わった、純和風の装いをした二階建ての建物である。玄関先やその周りは小奇麗にしているが、周囲の校舎や学生寮と比べると、埋もれてしまいそうな質素さがあった。元々は宿直棟として用いられていたものであるが、各校舎内に宿直室が設けられた今は、一人の人間がここに住んでいるという。
引き戸を動かすと、ぎちりと軋む。ゆがみが生じているようだ。
「先生、『瑠璃』先生? いらっしゃいますかー?」
綴歌が大きく呼びかける。しかし、返事はない。室内は、外気ほどではないが、やはりむわりとした熱気に満ちていた。奥までじっくりと観察できるわけではないが、段ボール箱がいくつか無造作に置かれており、それを囲うように教科書や参考書が詰まれていた。よほど使い込まれているのか、手垢による汚れや折り目、付箋が見て取れる。
「……靴がありませんわね。んー、約束を違える人ではないので、裏手でしょうかね……」
「じゃあ、自分は左手から見てくるよ。綴歌ちゃんは右から」
荷物を玄関の前に置き、二手に分かれる。外から見ると決して大きくない、普通の一軒家のようであるがかなり奥行きがあるようだ。鰻の寝床に近いのだろうか。




