6-11 剣祇祭
第六十六魔導官署執務室には重苦しい、毒々しいまでの空気が立ち込めていた。発生源は、六之介と華也である。
口論をしているわけではなない。慨然としているわけでもない。ただただ、無言。目すら合わさずにいる。現状を気まずく思っているのであろうか。華也はちらりと一瞬視線のみを六之介に向け慌てて戻す。これを何度繰り返しているだろうか。
一方で六之介は何ということはない。いつも通り気怠そうな目つきで、報告書に目を通している。内容は、先ほど照月で行われた皇家直属魔導親衛隊との共同任務についてである。剣祇祭当日に、姫殿下の護衛をするというだけのものだが、時間割や移動範囲、立ち入り禁止範囲などがかなり細かく指定されている。本来、仄が口頭で説明をするはずであったが、直接見た方が分かりやすいという六之介の意見でこうなっている。
仄は現在、着替えを取りに松雲寮に戻っている。本日の宿直は仄の担当であるのだが、珍しく準備を怠ったためである。方眼紙に書かれたように一切のずれのない仄の文字を見ながら、珍しいこともあるものだと資料をめくる。
現在、執務室内には四人がいる。六之介、華也、綴歌、五樹である。雲雀は上品すぎて食べたりないと、飲食店街に姿を消していた。
室内の毒気にやられている後者二人は、動くにも動けずじわじわと精神力が削られている。ただでさえ、仲睦まじい六之介と華也の様子を見てきているため、削り幅が大きい。
「と、ところでよー」
五樹の声は見事なまでに裏返っている。
「署長ってば仕方ねえよなー、あんなに遅れてよー」
恐ろしい棒読みである。無理に場を盛り上げようとしていることが伝わってくる。六之介も華也も反応はなく、綴歌が顔を引きつらせながら応答する。
「ほ、ほんとうですわねー。唯鈴様を待たせるなんて、無礼にもほどがありますわー」
「その涼風さんも遅れてきたけどなー。まったくしょうがねえよなー」
顔を見合わせ、乾いた笑いを重ねる。
「……二人とも有名だからだろ」
唐突に切り込まれ、六之介の方へ視線が動く。前後回転させた椅子に腰かけ、背もたれに顎を置きながら、資料を読んでいる。
「ど、どういうことだ?」
「涼風唯鈴は有名人なんでしょ? そして職業やどんな位置にいるのかも多くの人に知られているんでしょ?」
ええと綴歌が肯定する。言うまでもなく、涼風唯鈴は日ノ本で一番と言っても過言ではないほど有名人である。
「もしその涼風唯鈴を始めとする親衛隊がこぞって一か所に集まっていたら、民衆がどう思うか考えてごらんよ」
「……皇家関連の何かがある、でしょうか?」
「うん、だろうね。そこから、姫殿下が御剣にいるのではないかという推測が噂となって御剣に流れるだろ。噂に尾びれが付くのなんて一瞬だ。あれよあれよと、推測が確信へと変わり、街中がパニック……混乱する。民衆の皆が皇家をよく思っているならいいけど、そうはいかない。危害を加えようと企てる人間だって出てくる」
いわゆる左翼という団体だ。向こうの世界にもこちらの世界にも、やはり存在している。
「だから、涼風唯鈴はあえて遅れてきたんだろ。賑やかな時間帯を避けて、できるだけ人目がつかないように」
そもそも指定された時間は昼食を取るには遅い頃合いであった。多法塔という御剣の象徴では、昼時ともなれば数百数千の人間が入り乱れる。木を隠すなら森の中、人が隠れるのならあえて群衆の中を選ぶ選択肢もあったかもしれないが、涼風唯鈴は自身と親衛隊の知名度を理解したうえで、人の波を避ける選択をしたと考えられる。
「たぶん署長も同じじゃないかな」
掛坂雲雀の知名度がいかなるものかは分からない。しかし、これ以上ないほど目立つということは分かる。あの人並み外れた体躯を目視可能領域に捉えれば、誰であっても目が行く。それを分かっているからこそ、親衛隊を目立たせないために行動したのではないか。
「そういえば、唯鈴様は親衛隊制服を着ていませんでしたね」
「そうか、自由奔放な人だと思ったけど、そういうことなら……」
納得がいく。
ばさりと資料が卓上に放り投げられ、椅子を収める。
「ま、推測だけどね。じゃあ、自分はこれにて」
「お帰りになりますの?」
「うん、やることはやったし。それに、ずっと署に籠ってたから昼食も取ってないんだよね。適当にふらついて夕食も取るから、寮にいなくても気にしないでね」
壁掛け時計に目を向けると時刻は五時を回ったところである。太陽はまだ高い。
「じゃ」
右手を掲げ、足早に執務室から出ていく。なんともあっけないものである。振り返りもせず、足早に去ってしまう。
残された三人が顔を見合わせ、綴歌が華也に不満の声を届ける。
「華也さん、その顔は何とかなりませんの?」
「え?」
自身の柔らかそうな頬を撫でる。
「今にも泣き出しそうな顔をしていますわよ」
呆れた様にため息。華也に手を伸ばし、頬をつまむ。ほんの少しの力を込めて、引っ張る。
「あうあう」
「おお、柔らかいですわ」
「よく伸びてるな」
餅のようである。縦横に引っ張り、ぱちんと戻す。涙目になりながら、華也は頬をさする。
「何するんですかあ」
「辛気臭さを取ってあげようとしたのですわ。見ていられないので」
華也が俯く。
「話してみなさいな。仮にも、仲間でしょう?」
「仮にもって何だ! 俺たちは強い絆で結ばれた真の仲間だ!」
仮にもと言う言葉に反応した五樹が食って掛かるが、はいはいと適当に受け流す。くさい台詞である。
「住良木村の件でしょう?」
「……」
無言は肯定であった。
「六之介のことだよな」
「……はい」
事件の詳細は知っている。意識を失っていた間の凄惨な出来事については、報告書からも、五樹と綴歌の口からも聞いている。
本来なら保護すべき対象である民間人が魔導官を欺き、危害を加えようとした。それだけでも華也にとっては、悲嘆するような出来事である。しかし、これにもう一つ。いや、二つ。その民間人の多くが死傷したこと。そして、それが同僚である稲峰六之介によって行われたこと。
「華也さん、貴女の気持ちはお察しいたしますわ。ですが、それは」
人間とは複雑な生き物だ。状況に応じて、思考も行動も変化する、さながら万華鏡のような生き物だ。ほんの少しの加減で、見える色も形も変わる。味方にも、敵にもなる。それ故に任務のため、魔導官と言う職種柄、自身の手を汚すことはあると覚悟をしなければならない。
「彼を責めているのではないです」
「え?」
鏡美華也は、お人好しが過ぎる。他人に対して甘く、誰にでも優しい。自らのことを省みずに行動することも少なくない。それは彼女の性分であり、美徳ともいえる、だが、その性分が彼女にある『幻想』をもたらしてしまっている。
それは、人間とは善良な存在であるというものだ。損得考えずに他人に尽くす、華也の行動概念であり、同時に彼女はこれを普遍的で誰しもが持ち合わせているものだと思っている。人間がさも美しいものだと思い込んでいる節がある。
魔導官学校からの長い付き合いの綴歌から見た華也の姿である。
華也にとって、人を傷付ける、ましてや殺めることなど言語道断。決してあってはならないことだと思っている。しかし、今回、それを親しくしている同僚が行った。それに嫌悪感を持ってしまったため、彼女は思い悩んでいる。
綴歌はそう解釈していた。しかし、違うという。
「六之介様がしたことに、嫌悪感はあります。ですが、それ以上に」
俯く。
「申し訳ない気持ちが強いのです」
ぽつりと、懺悔の様に呟く。
「申し訳ない?」
「はい。元々、六之介様は魔導官になるつもりはありませんでした」
命令されたくない、自分の命を他人に預けるつもりはない。彼はそう言って、魔導官になるのを拒んだ。
本心であったのは間違いないだろう。華也もそれを尊重するつもりであった。しかし、六十七魔導官署に赴き、そこで雲雀と出会い、半ば強制的に魔導官にされてしまった。原因は雲雀であったといえるかもしれない。だが、本当にそうだろうか。
六十七魔導官署の外で待っているように告げれば、雲雀と出会うこともなかったかもしれない。仮に出会っていても、私が異世界のことを話さなければ魔導官になることはなかったかもしれない。さらに言えば、私にもっと力があれば翆嶺村で六之介を巻き込むこともなかったかもしれない。
考えれば考えるほど、深く深く罪悪感の沼に沈んでいく。
全てが仮定。しかし、一つ言えるのは、稲峰六之介が魔導官になったきっかけは、鏡美華也であるということだ。
「私が、彼を魔導官にしました。そして、手を汚させた。傷付けた」
それだけが、厳然たる事実として存在している。
「……それが、ただただ、申し訳なくて……」
華也は俯いている。その表情は濃い影となって見えない。泣いているようにも、憔悴しているようにも見える。
「なあ、その、励ましになっているかどうかなんて分かんねえけどさ、そんなに落ち込まなくてもいいんじゃないか?」
「……」
「鏡美は真面目っていうか、お人好しっていうか……なんでもかんでも背負いすぎな気がするぜ?」
「私も、そんな気がしますわ。そもそも、あれがそんな人間だと思いますの?」
あれとは、六之介のことである。
ひと月と少し前に、突如として現れた新人魔導官。およそ新人とは思えない程ふてぶてしく、健気さとは真逆な立ち振る舞い、怠慢。だというのに、とんでもなく優秀で、状況は俯瞰的に見えているし、能力も使いこなせているし、戦闘にも慣れている。その上、あっさりと残酷な判断も下せる正体不明の人間。
いかなる時も動じず、のんべんだらりとした人間。繊細な性根であるようには見えない。
「だよなあ。それに……」
五樹だけが見た六之介の姿。住良木の村民を一切の躊躇もなく殺害し、鮮血の中立ち尽くす存在は、禍々しかった。その動きには一切無駄がなく、確実に急所のみを狙っていた。素人の動きではない。知識のみで出来る動きでもない。あれは確実に、人を殺めたことのある人間のそれだった。
だが、五樹はそれを恐ろしく思ったのは、最初だけだ。彼は、外敵を取り除いた後、倒れている綴歌の心配をした。五樹の呼びかけにも、答えた。どこか辛そうな顔で、彼は刃を収めた。その顔を見て、分かった。
六之介は、自我を失ったわけでも楽しんでいたわけでもない。あれは、仲間を守ろうとしたのだ。ただ、その手段に容赦がなかった。否、きっと彼は知らなかったのだ。もしくはそう教えられた。守るために、敵は殺さねばならないと。
「……あいつにとっちゃ、そんな対応される方がよっぽど傷ついてると思うぜ。六之介さ、宮島から鏡美と美緒ちゃんを抱きかかえてきたんだけど、二人を寝かせるとき、どんなだったと思う?」
華也は答えない。
「すっげー優しかったんだぜ。宝物でも扱うみたいにさ、そっと寝かせて、村人と鏡美の間に立ちふさがったんだ」
六之介の表情は伺えなかった。だからこそ、動きに思いが滲み出ていた。
「手を汚させただの傷付けただのってのは、鏡美の想像だろ? 多分、俺は違うと思うぜ。話してみろよ、あいつとさ」
「……ですが」
きっかけがつかめない。自ら距離を置いてしまって、ぬけぬけと近寄ってもいいものだろうか。
「だったら任せろ。良い感じに話す時間をつくってやる」
「そうですわね。面白そうですし、手伝いますわ」
催物ではないのだが、二人は揚々としながらああでもないこうでもないと話している。
その様子は不安をよぎらせながらも、頼もしく思えた
「…………二人とも、よろしくお願いします」
深々と頭を下げると、五樹は期待しておけと胸を張り、綴歌は任せなさい笑った。




