第四話 おまけ
第六十六魔導官署には、署長の権限を用いて、居室が設けられている。二十畳ほどの広さに長机や椅子、本棚、冷蔵庫などが置かれており、多くの時間をここで過ごせるようになっている。華也や仄は一階部分の受付にいることが多いが、六之介、綴歌、雲雀は居室で過ごすことが多かった。
六之介は日課である問題集を解いている。勉強というものは決して好きではなかったが、華也のお手製問題集は実用性重視であることに加え、異世界の言語という認識がやる気を増大させていた。
ほんの少し前までのぎこちない文字に比べると、随分上達したように見える。既知の日本語との違いが文字の形だけであるということは、救いであった。
「おっ」
どうやら次の頁で二冊目も終わりである様だ。終点が分かるとさらに捗るもので、鉛筆が走る。
黒鉛が紙面を擦る音のみが静かに響いている。
六之介の様子を綴歌はぼんやりと見ていた。文字が読めないと聞いた時は、まさかと思ったが事実であるという。否、読めなかったというのが正しいか。
いずれにせよ、義務教育も受けていないということだ。だというのに、該博な知識を持ち、異国の言葉を使うことが出来る。
この男は、何者なのだろうか。
多々羅山を探索していた時に、聞き逃してしまった。もう一度聞きなおそうかという気持ちもあるが、気が引けるという気持ちも強い。まるで、貴方のことが信用できないから、教えろという意味に感じられてしまったためだ。
稲峰六之介という人間は、よく分からない。何者であるのかもそうだし、自身にとってどんな位置にいるのか判断できないでいる。
「♪~♪~」
鼻歌交じりで、鉛筆を動かす。
世辞にも上手いとは言えない文字であったが、文字を習ってひと月にも満たないことを考慮すると、異常ともいえる速度で身についている。
今まで気にしていなかったが、一点に目を奪われる。
六之介の頭から生えた触角のような二房の髪である。手を動かすたびに、すすきの様に揺れる。
寝癖ではなさそうだが、わざわざ整えているとは思えない。かといって、こんな癖毛があるとも思えない。
「……」
つかんだら、どうなるのだろうか。
悪戯心が芽生え、ひっそりと息を殺し近付く。魔導官として戦場を潜り抜けた経験を無駄に生かし、気配すら殺す。
ゆっくりと手を伸ばし、引っ張らないように、できるだけ優しくつかんでみる。
思っていたよりも柔らかく、艶もいい。
「……」
「……」
六之介と目が合う。
状況を理解できているのかいないのか、呆れているとも怒っているとも言えない、なんとも言い難い目をしていた。
唐突な出来事に戸惑う。
頭を撫でられるような感触がしたと思えば、綴歌が何故か髪を掴んでいた。虫でも止まっていたのかと思ったが微動だにしないあたり違うのだろう。
特等席に腰掛け、菓子を頬張っていた雲雀は何やってんだと言わんばかりに二人を見ている。
感覚的に自分の癖毛部分、所謂、アホ毛を掴んでいるのだろう。これは自分にとって特徴でもあると同時にちょっとした悩みでもある。
なおらないのだ。濡らそうが整髪料を用いようが、治まるのは数分のみ。気が付くとぴょこんと兎の耳のように立ち上がる。触角の様に知覚が出来るのならよいが、これは単なる髪の毛。何の能力もない。
どうしたものかと思った矢先、ふと悪戯心が芽生えた。
「ぐ、ぐああああああ!」
声を荒げ、倒れこむ。綴歌の身体が跳ねる。
「う、うぐぅ……ぐうううう!」
別に身体は何ともない。健康体であるが、綴歌は突然のことに戸惑いを隠せずに右往左往している。
雲雀と目が合う。口元が弧を描く。共犯者が生まれた瞬間である。
「筑紫、お前! その触角に触ったのか!」
珍しく声を荒げる雲雀に、何かやらかしてしまったのかと混乱が深まる。
「え、ええ? ええと? え?」
「触ったのかと聞いている!」
綴歌が首肯すると、雲雀が駆け寄り、六之介の脈を図る。このとき、綴歌に背を向ける位置を取ったのは、にやけ面を隠すためである。
「なんてことだ……」
六之介は微動だにせず、瞼を閉じている。
「こいつの触角は、人間の心臓と似たようなもんなんだ。心臓は右と左に分けられるだろう? それと同じで、右触角と左触角、この二つが生命力を循環させているんだ」
よくぞここまでつらつらと嘘が出るものだと、表情には出さないが感心する。
「せ、生命力?」
「そうだ。だが、お前が握ったことでそれが乱れてしまった……こいつはまずいぞ」
まずいのは現状である。笑いを堪えるのが辛い。薄目を開くと、顔面蒼白の綴歌に、心底楽しそうな雲雀。
「ど、どうなってしまいますの!?」
「……最悪、死ぬかもしれん」
「!」
そこまで人間は脆くない。
「そ、そんな……わ、わたくしは……わたくしは、そんなつもりでは……」
膝から崩れ落ちる。どうやら本気で信じているらしい。
「くっ、駄目だ! 脈が戻らん!」
平常時より荒ぶっているのだから、戻らないというのはある意味で正解だと思う。
「何をしている! お前も手伝え!」
「て、手伝うとは?」
「声をかけてやるんだ!」
そんなことされたら絶対に笑ってしまうから、できればやめてほしい。しかし、綴歌が駆け寄り、六之介の手を強く握る。
今にも泣き出しそうに、目は真っ赤である。
「六之介さん! し、しっかり、しっかりしてください!」
悲壮感すら漂う様相に、罪悪感すら沸いてくる。しかし、打ち明けるタイミングが分からない。
雲雀は、綴歌の後ろで声を殺して笑っている。この人が一番楽しんではいないだろうか。
「貴方に死なれたら、わたくしは……!」
その時であった。居室の扉が開く。
「先ほどから騒々しいが、いったい何をし……て、いるんだ?」
仄副署長の眉間に寄っていたしわが、歪む。現状が理解できないようだ。
半泣きの綴歌に倒れた六之介、必死に笑いを堪える雲雀。全く持って意味の分からない状態であった。
ネタばらしの後、六之介と雲雀は居室の隅に正座をさせられている。
綴歌は長机に突っ伏し、悔しそうに、あるいは恥ずかしそうに机をたたいている。
仄は二人を見下ろしながら、鬼の形相である。鍛錬用の木刀を握り締めている。
「二人とも、なにか言うことは?」
「すみません」
迷わず謝罪する六之介に対し、雲雀は不満げに口を開く。
「いやいや、これは訓練だから。騙されやすいお嬢様のために画策してたもんよ」
なあと、同意を持ちかけられるが、仄にはお見通しであるらしく、木刀を床にたたきつける。
「まったく、どうして貴方は……」
呆れてものも言えない。眉間を抑え、大きくため息をつく。
「筑紫信兵、稲峰義将」
「は、はい」
返事が重なる。
「筑紫信兵はもう少し周囲を観察し騙されないように。稲峰儀将は彼女の手助けをしてあげなさい。分かりましたね?」
首肯すると、仄の顔から険が取れる。
「ならば、帰ってよろしい」
綴歌が足早に部屋を出る。それを六之介が追いかける。
「……さて、署長、貴殿にはお話しすべきことが山ほどあります」
「……ええ……」
「そもそも魔導官署の署長というものはですね」
それから日付が変わるまで、仄の説教は続いた。翌日の雲雀は、ほんの少しの抵抗なのだろうか。いつにも増してやる気のない、署長らしさなど微塵も感じられない立ち振る舞いであった。




